2021.09.13

 

 面白いことがない。良いニュースは自分で産み出さなければならない。でもどうやって? という三つの言葉が堂々巡りである。

 

 前の日記の続き。お店の子はどちらかといえば、ギャルなのだが、みんなギャルには共通の特徴があるのだろうか。二面性というか、体裁は最低限波風絶たないように(ただ、極力相手にコミットしないように)しつつ、ティッシュでくるんだ包丁のような毒舌な感じをうちに秘めたままでいるという。というか、これはイヤイヤ相手をしているということなんじゃないか? 前にも別のギャルと接したときと同じ空気を痛いほどに感じる。

 容姿の事から入ったものの、もっとよく知りたいと話をしようとしても、そもそも話が得意な方でもないし話すことがない、話してもうまく話題もかみ合わない。志向する文化が違うと楽しくない。かなり厳しい状態の中でまるで自傷行為のようにお店に通い続けている自分がやはりいったいなんなのか、ということをすごく悩む。合理的でないことをし続けているという意味で、ものすごく自己嫌悪だ。楽しむには才能がいる。楽しむにはそれななりに馬鹿でなければならない。

 それに、ルッキズムの真っただ中で生きてきた彼女たちは、ルッキズムが分かちがたく思想に根強いているので、容姿の優れていない者にやはり厳しい。それを本人もむき出しで表に出したくないということはうっすら感じ取れるが、それでもマイルドな形ではあれ色濃くそのルッキズムの思想がにじみ出ている。ということで、私に対する扱いについてもぞんざいになりがちなことは当然のことだ。

 自分の志向する文化と相手の文化の公約数を探していくのだが、どうしても自分の知識でもって相手を啓蒙しようとするような方向しか打ち出せなくなる。ぞんざいにしか相手はそもそも話を聞いてくれないし、自分もうまく話ができるほうでもない。結局、話は迷走してその場の酔っ払いたちの声と歌声と喧騒に立ち消えていく。

 楽しくなければ意味がない。楽しくなければ相手にも申し訳ない。何も始まらない。

 ため息が良く出るようになった。つらい。

 せめて、容姿から入ったが内面も、そして人間として全部好きみたいなように移行する流れをつくることができれば(理論武装)まだ心を落ち着けるような気がするが、自分もどっぷりとルッキズムに加担しているので(そもそもあのような店はそのような前提で成り立っている)、それも難しい。話しても楽しくないとすると、容姿しかよりどころがなくなってしまうからだ。

 だから、いっそう自分はいったい何をやっているのかといういらだちと自己嫌悪ばかりが膨らんでいく。

 ところで、お店の子は高月彩良という女優に少し似ているかもしれないという指摘が友人からあり、たしかにちょっと似ているなと思った。目とかそっくり。