ガールズバー事件顛末

 ガールズバーの女の子がいなくなった後のその後の顛末を記そう。だが、その前に私は以下のような妄想を繰り広げていたので、それも記そう。勝手にこのようなことを考えて涙を流してさめざめと泣いたりしたのだが、実際は違ったのである。

 

【あの子がいなくなってしまった後の私の勝手な推理】

 改めて考えると、9月末の時点で辞めるつもりだったのは確かという気がしてくる。そして、10月頭にシャンパンなど入れたりしたものだからそのときの同伴の話までを考慮してくれたんだ。「先に予定は立てておきたいじゃん」と言っていたのはそういうことだったのではないか。おれが最後の同伴をする9日に、辞める日を合わせてくれたんだ。やっぱりもともと辞める気だったんだ。土曜日の前日、急遽入ることになって「メンがヘラって写真を送った」とか言ってたのは、旅行の件もあったんだろうけど、常々私がいろんなあの子を見たいと言っていたことや、本人も「かわいいやつを着ていくね」と言っていたけれども、土曜に着なきゃいけない服を着ることになったからこういう服だったよと見せてくれていたのではないか。あと、出勤でいることを伝えていたことは辞める最後の機会として会えるのは数限りがあるぞというサインだったのかもしれない。

 そう考えるとどんどん深読みできて怖いのだが、土曜日に食事の席で出た、飲み屋とガールズバーを兼務していることを店側に相談したという話は、他の店に移るという話に読み替えることもできる。「オーナーも『うちだけで働いていてほしいけどそれは止めないよ』と言ってくれてる」というのは他の店に移るという話の変奏だったのではないか。そして、その後に阿佐ヶ谷・高円寺の友達とイタリアンを食べに行く、という話が出てきたのだが…。高円寺に住んで草加にも通えたらとも言っていたのは…。意図的に言っていたとは関係なく、ヒントなのではないか。あの子は阿佐ヶ谷高円寺のガールズバーで働き始めている。おそらく、かつての知り合いから引き合いがあり、そちらに移ったと考えるのが妥当だろう。この当てずっぽうの想像が正しければの話だが。

 そういう諸々の辞める予定(推測の域を出ない部分も多いが)を隠しつつ、私が最後まで楽しめるように配慮してくれていたと考えるのは間違いない。本当に優しい子だ。ほとんど想像の話ではあるが、その優しさに耐えきれなくて泣いた。

 というふうに思った一方で、あの子はふつうにミスして一気に辞めることになった可能性も全然ありえる。答え合わせ、どうしようか。オーナーに聞けばある程度は真相がわかる。少なくとも事前に辞める予定だったのかどうかだけでも明らかにはなるが…。それでどうなるということもないが…。もう会えないことには変わりないし。

 

 というように推理していたのだが、実際は驚くべきことに、私のネット上の女友達が毎回あまりに私がその子のことを話すものだから、夜食の女に入れ込みすぎているように見える私のために良かれと思ってやったのか、嫉妬心からの腹いせなのかわからないがTwitterのDMで嫌がらせをあの子にしていたため(!!)、あの子は怖くなり、また、私も犯人の一味と疑って連絡をよこさなかった、ということだったのだ。事実は小説よりも奇なり。つまり、あの子は特にもともと辞めるつもりは毛頭なかった(現にいまも辞めていない)。私がその気配りに感激し流した涙はまったく無駄だった。そう、あの子にはそんな頭はなく、当然のことながら自分の事しか主に考えておらず、特に嘘もついていなかったのである。

 

 その後、10月末から数度店に足を運び、11月頭にやっと会えたため誤解を解き、ネットの友達がやっていたということを詫び、その後2か月ほどまた通った。だが、もう今は通っていない。当初からわかり切っていたことだが、あまりにも不毛という事実に耐えきれなくなった。見下されている感というか、こちらの話を一顧だにしない姿勢しなかったのでほとほと嫌気がさしてしまった。つまりは分かり合えない人種だったということである。(12月初旬くらいに4人くらいで行った時、完全にほっとかれてV系バンドの話を連れのバカと話しているのをみてこれは私はついていけないな、と無気力になった。その後、もう店に行っておらず、もう行くことはないだろう。(ところで、指名客がおり、その連れがおり、指名客が無口で連れがおしゃべりな場合、キャストは話している方に話を合わせることになる。もう一人キャストがついているとしてもその子は指名客には話しかけづらいので、必然、無口な指名客が孤立するという構図が生まれてしまう。構造的な問題ではないか? どっちかが話していなかったら指名客でも会話を試みるようにするという方針にしとけよ)(ちなみに、この連れのバカは本当に今まで見たことのないくらい馬鹿で、そのガールズバーの精算を割り勘でしようと割り勘分を払うように言ったら、殴りかかってくるというクソである。意味が分からない。絶対に許さない。理不尽すぎるだろ。この話はいつかのときにまた書こう。))

 

 この話はこれでおしまい。

 

2021.10.13

  

 ガールズバーの好きな子がいなくなってしまった。よくあることだ。そう、こういうことはごくごくよくあることである。だが、とてつもなく悲しい。Twitterが日曜日に消えていたことはすぐに気が付いていたが、そのことを聞くと、「客から来たDMのことで消すことになった」とだけ返され詳細はわからなかった。そういうこともあるのかと思ってそれほど触れもしなかったし、TwitterなしでもLINEがつながってるから、また出勤予定とか流してくれるだろう、くらいに思っていた。だけれど、今日の午前11時前にあの子はLINEのアカウントを削除したみたいだ。いまでは「メンバーがいません。」としか表示されず、PCのLINEアカウントにかすかな履歴が残るのみである。

 あの子とは7月末に初めて会い、2か月半のうちに10回ほどしか会うことはなかった。その中でもそれなりに人となりをうかがい知ることができた。かなり失礼な見解を抱いたりもした(年の割に精神的に幼い、人生を迷走しているなど)が今となってはそんなことは些細なことであり、既に会えることはなくなったというその事実が厳然と私の前に置かれているいま、もう一度でいいので顔が見たいし話がしたい。正直、あの子は真面目に私の話を聞いてくれていたとは言い難いし、まるで共通点もなかったし、馬が合うわけでもなかったが、私はあの子が好きだったことに間違いはなかった。しかし、あの子の人生に私はこれ以上登場することはできなかった。どんなことを考えてどんなことを言ったりするのかをもう聞くこともできないし、猫っぽい淡々とした表情をもう見ることはできない。もう会えないと分かった途端の、このどうしようもない愛しさ。すごく悲しくてつらい。

 

 9月末に体調を悪くしたとかで、10月の頭はシフトを3日しか入れないと言っていたのでそういうものかと思い、10/9(土)に同伴でごはんの約束を既に取り付けていたのでそれほど気にも留めなかったが、今から思うとその時点で何か辞めようというように動いていたのではないかという気がする。

 酔った勢いで電子タバコの話になり、VAPEをあの子の分まで購入することになっていた。現に購入済ではあるけど、まだ手元には届いていなかった。土曜日に会った時に開口一番あの子は「催促するわけじゃないけどあれ届いた?」と言った。これも今から思うと頼んでいたものを持っていきたかったのではないか。思い返すとやはり土曜日、最後にあった日も元気がなかった気もする。家族で旅行に行く予定だったらしいが、あの子は反ワクチン派なので、信頼していた家族から反対を受けて旅行に行けないことになり落ち込んでいると話していた。もともと元気がなかったことに加えて、そのことも加わり、辞めるに至ったのではないかと後から推量することしかできない。もう一つやっていた飲み屋のアルバイトも身体が辛いので辞めようと思っていると言っていたのも、今から思うとガールズバーとの客とのつながりを完全に絶つためだったのではないかとも思える。

 

 プロ意識があるというか愚直というか、仕事に対しては真摯に取り組んでいた子だったので、何かへまをして急にやめることになったとは考えにくい。しかし、10月頭にハロウィンイベントの仮装はチャイナドレスにしようと言っていたのはなんだったのか、やはり、急に心変わりがあったのかもしれない。もう何もわからないけど。

 それにしても、一言言ってくれてもよかったじゃないかと思う。何も気づけなかった私もあほだが、でも、わかりっこないじゃないか。

 

 答え合わせができない、こういった問題は一番厄介だ。延々と自分が悪かったのか、何が正解だったのかを考え続けることになってしまうからだ。私のせいで何かあの子を傷つけていたんじゃないか、もっと優しくできていたり話を聞いてあげていればもっと長くいてくれたんじゃないか。そんなことをぐちぐちみじめに考えている。

 

 思いもよらない形で、私の散財の毎日は終わりを告げた。もともと来年に引っ越すまでにボーナス二回分の金額をすべて投入しようと考えており、90万くらいは使った。ちょうどいいと言えばちょうどよかったのかもしれない。ひとつ余った電子タバコはいったいどうすればいいんだ。今週の土曜日の夜に渡そうと思っていたから、土曜日の午前に届くのだけれど。

 

 また会えるかな。きっと会えることはないだろう。どうか、元気にそして幸せになってほしい。あの子はいろんなことをやってみたいと言っていた。正直31にもなってそんな地に足付かないことを言っているのはどうなのかなぁと思ったし、飽きっぽそうだからうまくいかないんじゃないの、という気がすごくしたのだけれど、何をやろうとしても私は応援してしまう気がする。そうそれはもうあの子のことがやっぱり好きだったから。気持ち悪いお客で本当にごめんという気持ち。

 いろんなことをやってみて、自分がこれだと思うものが見つかるといいね。応援しているよ。もしもそれがどうしても見つからなくても、どうか必ず幸せになってね。健康のために日課のラジオ体操は続けるんだよ。あんな細い体にどう食べ物が入るのかわからなかったけれど、たまにするって言っていた爆食いは控えたほうがいいよ。とにかく健康に気を付けてね。

 本当に短い間だったけれど今までありがとうね。私の人生に登場してくれてありがとうね。

 泣きそうだ。

 

2021.09.13

 

 面白いことがない。良いニュースは自分で産み出さなければならない。でもどうやって? という三つの言葉が堂々巡りである。

 

 前の日記の続き。お店の子はどちらかといえば、ギャルなのだが、みんなギャルには共通の特徴があるのだろうか。二面性というか、体裁は最低限波風絶たないように(ただ、極力相手にコミットしないように)しつつ、ティッシュでくるんだ包丁のような毒舌な感じをうちに秘めたままでいるという。というか、これはイヤイヤ相手をしているということなんじゃないか? 前にも別のギャルと接したときと同じ空気を痛いほどに感じる。

 容姿の事から入ったものの、もっとよく知りたいと話をしようとしても、そもそも話が得意な方でもないし話すことがない、話してもうまく話題もかみ合わない。志向する文化が違うと楽しくない。かなり厳しい状態の中でまるで自傷行為のようにお店に通い続けている自分がやはりいったいなんなのか、ということをすごく悩む。合理的でないことをし続けているという意味で、ものすごく自己嫌悪だ。楽しむには才能がいる。楽しむにはそれななりに馬鹿でなければならない。

 それに、ルッキズムの真っただ中で生きてきた彼女たちは、ルッキズムが分かちがたく思想に根強いているので、容姿の優れていない者にやはり厳しい。それを本人もむき出しで表に出したくないということはうっすら感じ取れるが、それでもマイルドな形ではあれ色濃くそのルッキズムの思想がにじみ出ている。ということで、私に対する扱いについてもぞんざいになりがちなことは当然のことだ。

 自分の志向する文化と相手の文化の公約数を探していくのだが、どうしても自分の知識でもって相手を啓蒙しようとするような方向しか打ち出せなくなる。ぞんざいにしか相手はそもそも話を聞いてくれないし、自分もうまく話ができるほうでもない。結局、話は迷走してその場の酔っ払いたちの声と歌声と喧騒に立ち消えていく。

 楽しくなければ意味がない。楽しくなければ相手にも申し訳ない。何も始まらない。

 ため息が良く出るようになった。つらい。

 せめて、容姿から入ったが内面も、そして人間として全部好きみたいなように移行する流れをつくることができれば(理論武装)まだ心を落ち着けるような気がするが、自分もどっぷりとルッキズムに加担しているので(そもそもあのような店はそのような前提で成り立っている)、それも難しい。話しても楽しくないとすると、容姿しかよりどころがなくなってしまうからだ。

 だから、いっそう自分はいったい何をやっているのかといういらだちと自己嫌悪ばかりが膨らんでいく。

 ところで、お店の子は高月彩良という女優に少し似ているかもしれないという指摘が友人からあり、たしかにちょっと似ているなと思った。目とかそっくり。

2021.09.07

 9月になった。春が来て夏も来てすでに秋になった。

 驚くべきことに緊急事態宣言はあれからたびたび出されたり引っ込められたりしてまだコロナ禍は終わっていない。オリンピックもパラリンピックも感染者を急増させながらも幕を閉じた。ワクチン接種は1月の段階よりもだいぶ進んだが、まだ私は受けることができていない。

 私は自暴自棄になっている。恋人らしい人もいるのだが、何も満たされず、虚無のうちに暮らしている。良いことと言えば、新しい冷蔵庫を人からもらったことくらいだろうか。あと料理をそれなりに作るようになってきたこと。仕事は忙しくなってきた。あまりうまくいっていない。職場ではちょっと孤立しているような感じもあるし。

 実際に本当に自暴自棄というか、何をしても楽しくないという状況である。夜な夜な近所の飲み友達を酒を飲んでも、女の子のいるお店に行っても、恋人といても楽しいという感情をあまり感じることができなくなってきた。鬱病の入り口に立っているのかもしれない。そういえば、実家の方で祖父が自殺未遂したり、鬱病の父が精神を悪化させながら介護をしていたりということも私の精神面に少し影響しているのかもしれない。

 が、とりあえず、健康ではある。酒はよく飲んでいるしタバコもこの歳になって吸うようになってしまったが、身体は元気だ。

 タバコは肺に入れるとすごくくらくらする。正直もう吸わなくてもいいと思うが、惰性で吸っている。

 来年には引っ越そうと思っている。この自暴自棄は、自分の思うような生活が送れていないからではないかという気がするからだ。もともと私はそんなに話す方ではないし、無理に人と関わらずに、自分の読みたい本を読んだり、自分の考えをここのようなどこかに書きつけたり、勉強をして知見を広げたり、音楽を聴いたり、絵画や映画を観たりというような文化的なことだけをして暮らしたいと思っていた。しかし、いまはそういうことは何もできていない(できたときはあったかというとなかったかもしれない)。

 だって、いつも気分が乗らないから。

 では、どうやったら気分が乗るのかというとよくわからない。全てがうまくいっていればいいのだけれどそういうことは滅多になるものではない。仕事がもっとうまくいけば気分はいいのだと思うが、私生活で自分の理想の過ごし方ができていないと満足感がなく、また元に戻ってしまうのではないか。もちろん、仕事がうまくいくこともそんなにないのだけれど。細かい失敗をしながら業務を遂行しようとがんばっている。

 この楽しくなさ、気分の乗らなさを一掃するには、一度すべてを仕切り直すことがいいように思っているので、来年に引っ越して心機一転目指すべき生活を送る予定だ。とはいっても、その引っ越しの予定は8月なのであと1年近くもある。それまで、この気分の乗らなさが続くのかと思うと不安だ。

 気分を上向きにするには何をしたらいいだろうか。自分の思ったことがうまくいくこと。つまり、計画通りに物事が進んで、未来が明るい感じを手に入れること。新しいことを始めること。人を笑わせること。運動をしたり、お風呂に入ってリラックスすること。酒は飲まないほうがいい。アルコールの離脱症状か何かで酔いが覚めたときのどうしようもないやるせなさが辛いからだ。それに、健康とは言ったが、明らかに酒を飲んだときの記憶の欠落が著しい。自分の言ったことや相手から聞いたことを覚えていないというのは素面の時に直面するとそれなりにショックだ。これ以上ぱっぱらぱーになるわけにはいかない。飲酒はほどほどにしたい。

 

 今日この文章を書き始めたのは、近況のどうしようもなさを書きつけることにあるのではない。自暴自棄の中でガールズバーに行くようになり、一人の子を指名するようになったのだが、その子に対して自分の立ち位置がよくわからなくなってきたから頭の中を整理したかったからだ。

 もともと、涼しげな顔のどちらかと言えば童顔で色白でショートカットでタイプだったからはっきりって好きだし、あわよくば付き合いたいとさえ思って指名し始めた。しかし、そういう気持ちを隠して私は自分の中で言い訳を作りながらここまできている。その言い訳は以下の二つである。

 ①「自分は何をしても楽しくないのだから、自暴自棄キャンペーンの一環として、女の子のいる店で金を多く使っているのだ、せっかくなら誰か指名してその子を中心に遊んだほうが楽しくなるのではないか、スポーツだってどこでもいいから応援するチームがあった方が観戦は楽しいはずだろう」

 ②「一人の子を指名し続けて、その子に入れあげているようにしているのはポーズであって、本当は自分は何をしても楽しくないという問題があり、その問題を緩和するために入れあげているふりをしているのだ」

 正直、この二つは半ば正しい。今でも楽しいかと言うとそんなに楽しくはない。むしろ、辛い。客と店員という金でしかつながっていない関係性の中で自分のどうしようもなさを目の当たりとさせられながら金を払い続けるというのは辛すぎる。まだ、この子と付き合ったりして自分のものになるのであれば楽しくもなろうがそういうわけでもない。相手は同い年で手練れだし、私のことは優し目のよくわからない客というふうにしか見ていないだろう。もう自分が無理をしながら会話をして、払いたくもない金を払って今の状態を続けていくことが心底嫌になっている。

 それでも、あの子が好きというのは本当なのかもしれない。実際、四六時中あの子のことを考えているし、付き合いたいなぁと常に思っている。だが、一方で本当に辛く苦しい。こう表現すると恋の様相をかなり呈しているように思うがそういう面を考慮せずも苦しい状態だ。

 輪をかけて今の自分の立場をわからなくさせているのが、同じ子を指名していたおっさんがおり、そのおっさんは私の人間関係上の一角でひと悶着あって消えていったのだが、そのおっさんと私は同じ穴のムジナではないかということだ。

 そのおっさんは、その子のことが好きで目をつけて、私によくわからないマウントを取ってまでその子を手に入れようとしていたのだが、私は「あの子のことを手に入れたいおっさん」といったい何が違うのか。おっさんのことを「昔、他の店の子に年甲斐もなく、本気になってプロポーズして断られてたんだぜ」などと馬鹿にしていたが、では、私はいったい何なのか。自分の中に言い訳を用意しているとはいえ、あの子のことが好きで何としても手に入れたいという点では、そのおっさんと同じではないのか。ここで私の中に、自分自身で新たな言い訳が育ちつつある。

 ③「自分は客と店員という関係をわかっており、楽しく時間を過ごせさえすればいいという立場で店に来ているのであって、分別をわきまえているのだ」

 もちろん、これも単なる言い訳の域を間違いなく出ることはないだろう。すでに本当に入れ込んでいるからだ。しかし、おっさんの件があった以上、それを全面に押し出すことはできない。そして、いま楽しくないからどこまでいってもこれは言い訳だ。あの子には会いたいし、もっと話したいし、もっと知りたいのだが、もう自分では到底無理だということを突き付けられすぎて本当に苦しい。話すことが苦手だし、気を遣わせてしまっている。また、自分の一貫性が無さ過ぎて、酔いに任せて他の子に目移りする様をあの子に見せてしまったりしており、よりあの子に仕事感を出させる遠因となっている。はっきり言って素直に楽しくない。

 だが、あの子と会いたいし、付き合いたいというこの状態はどうしたらいいのか。

 私なりに、一つ予想はついている。このどうしようもない状態が来年の引っ越しまで続き、引っ越してすべてに終止符が打たれるという予想だ。現実的な線ではこの計画を実現させるしかないと思っている。そうすれば、自分が持ってきた言い訳①~③のすべてを保ったままきれいに今の場所を去ることができるから。

 自分で自分をより苦しい状態に持って行っている。もはや意地であの店に通っている。本当に私は愚かだと思う。「本当に付き合ってほしい」ということを前面に押し出すことなんて絶対にできない。口が裂けても愛の告白などできない。私自身の一貫性がなくなるからだ。自分のプライドが何よりもそれを許さない。

 一つ、夢物語の線がある。「あの子が私のことを好きになってくれる」という線だ。そんなことをまずどう考えてもないのだが、諦観9割9分の中でその線に期待をしながら自分を取り繕って1年間を過ごそうと思う。この線しか楽しくないから。

 だから、私はあの子の店にまた行くし、できる限り、優しくして話を聞いてあげて、褒めてあげて、楽しませてあげて、少しでも好きになってもらえるように頭を悩ませる。時間と金とをたくさん無駄にしながら。これが当面の計画である。

2021.01.19

 

 いつのまにか2020年が終わりを告げ、2021年になった。新型コロナウィルスは収まるどころか感染者数をどんどん増やしている。国内でも感染力の強い変種が発見されたらしい。昨年の4月頃よりも感染者数が多いのに人々は前より街にあふれている。まだオリンピックを政府は行うと言っており、正気を失っているように見受けられる。緊急事態宣言がまた発令された。といっても私たちは普通に出勤している。飲食店が20時に閉まるようになった。10万円はもう給付されないようだ。

 

 私は、9月に個人情報保護士という名前のセンスのかけらもない資格試験を受けてから勉強をしなくなった。飲み会の頻度が増え、毎週末には自宅で地元の人たちと酒を飲んでいた。もしくは、映画を家で上映する知人の家で映画を一日中観ることが増えた。C言語の勉強は続けていたが、教えてくれる友人の話をただ聞いているだけであり、復習をしていないので、徐々にわからなくなってきた。プールは3月末まで工事中になってしまった。会社の同僚はダイエットに成功し、私より体重を減らして次は身体を鍛え始めた。後輩もジムに通い始め、肉しか物を食べなくなった。

 

 大晦日は山で過ごした。仲間三人と元旦のご来光を山頂で見る予定だった。山中は怖い妄想をいろいろ加速させた。真っ暗で寒い中をひたすら歩き、山頂に着いたが風が強くガスストーブでお湯を沸かすことができなかった。カップ麺も食べることができなかったのでみんな震えたまま次へ進まざるを得なかった。道の途中でたき火を囲み焼肉を食べる団体がうらやましかった。途中の夜景がきれいな場所では人がたくさんいて夜明けを待っていた。山から見える東京方面は、黄色とオレンジ色の暖かそうな光で横に広がってきらめいていた。そして、その光を後ろの方からじわじわと夜明けの光がにじみ始めていた。私たちは完全に夜明けを待たず、その場所を後にして先に進んだ。とにかく寒かった。ペットボトルの中身がシャーベットになった。スマホの電源が入らなくなった。仲間の電子タバコのリキッドが凍った。一人は膝が痛くて歩きたくないと文句を言い出し大いに足手まといとなった。残りの私ともう一人はまだまだ元気だったが、仕方なくルートを変え、バスに乗り、駅まで戻った。かろうじて元旦の早朝に開いていたコンビニでドリアとコーヒーを腹に入れた。その後、電車に揺られて地元まで帰り、スーパー銭湯に入って酒を飲んでから帰宅した。

 

 そして、もう1月も半分が過ぎた。最近は朝をたくさん食べ、昼を普通に食べ、夜は食べないようにしている。いつもこたつで寝ているため、あまりすっきりと眠れないまま、遅く目覚め、朝食を食べずに最寄り駅に着き、始業時間の15分前に蕎麦屋に入りタイムアタックで朝カレーセットを食べている。もしくはコンビニでおにぎりやサンドイッチを買い、始業5分前の机の上で流し込む、ということが多い。本格的に野菜不足な気がしてきた。いつも謎の残便感がある。昼食は昨年から継続しているが、家でごはんを炊いてレトルトのカレーをかけて食べている。もっとも、ごはん自体を炊くのを億劫がり、なかなか炊かないため、昼は弁当屋の弁当を買って食べることも多い。夜は缶ビールを一本程度飲むことが多い。そのまま、風呂に入らずこたつで寝るのをやめたい。

 

 通勤中にSNSをスマホで見ることを止めたいがずっと見てしまう。本を読みたいがすぐに眠くなってしまう。帰りはまず間違いなく寝てしまう。電車で寝ても隣の人によりかからなくなった。

 

 性懲りもなくまたマッチングアプリを始め出した。3か月だけやる予定だ。まったくマッチングしない。写真が悪いのだろうが、自撮り以外に写真を手に入れることができない。みんな自己紹介に似たようなことを書いており馬鹿みたいだなこいつら、と思う。やっていて悲しくなる。

 

 貯金があまりないかもしれない。引っ越しも今年は5月までにはしたいと思っているのに。節約をしないといけない。

  

 仕事が忙しくなってきた。残業が増えた。酔っぱらって出勤することはまったくなくなったが注意力は散漫でケアレスミスが多い。4月まで多忙な日々が続くだろう。今日は業務の電話をする中で、多くの人からコロナの影響で苦しいという話を聞いた。昨年より業務は難航しそうだ。隣の席のおばちゃんに人気の漫画を遅ればせながら借りて読んだ。8巻で号泣した。その漫画を読んで、人の利他性って素晴らしいものだなと思った。

 

 とは言いつつも、自分以外の幸せだったり順調な人たちへの僻みの感情が強くなってきている。私が不幸であるときはみんなは不幸のどんぞこであってほしい。私だけが幸せでありたい。

 

 自分を馬鹿にしてきた奴らが許せない。自分でも意外なほどの執念深さで復讐の機会をうかがっている。妄想で奴らをよくぼこぼこにするが実際に天誅が下ってほしいと思うし、あわよくば本当に悲惨な死を遂げてほしい。キレることや暴力性を見せることは大事だ。大声を出して威嚇してもいいかもしれない。

 

 私が前に進む唯一の方法として知っていること、それはつまり、勉強だったり読書なのだが、とりあえず、またそれを少しずつやっていきたいと思う。

 

 

 

 

 

 

Q1-1.なぜ人との会話は楽しいのか?

 

 なぜ他人がいると楽しいのか。それは寂しくないから。きっと予測不可能なことがたくさんあるからだし、一人ではできないことができるから。そういった、いろんな理由はあるだろうけれど、他人がいたらどうにも必要になってくることといえば、会話だ。人が複数いれば会話が生まれる。そして、それは他人といると楽しいという気持ちにつながる大きな要素だ。むしろ、それが他人がいることの重要性として、一番土台にあると言ってもいいだろう。

 

 人と話したい気持ち*1、というのはけっこう無自覚に強く、一人のときにはそうでもなかったけれど、他人と話していて言いようのない楽しさを感じることがある。感情が発生したら、それを共有したいし、そうでなくてもたまには誰かと意思の疎通を図る行為をしたいという志向性がどうやら私たちには組み込まれている。(反対に、どうにもコミュニケーションを取りたくなく、一人になりたいというときもある)。

 

 しかし、なぜ会話やおしゃべりは楽しいのだろうか。その理由を考えてみよう。以下に思いついたものを述べる。

 

①自分以外の考えがわかる

 つまり、新しい発見がある、他人の思っていることはふだんはわからないけれども、言語という道具を使うことによってはじめてその中身が少しだけ垣間見える。それが楽しい。

 

②偶発性と即興性

 偶然の要素が他人がいることで多分に含まれてくる。つまり、相手のことは予期できないことがある。その中で即興的に理解して自分からまた言葉を繰り出す。これは一種のスポーツのような楽しさなのかもしれない。

 

③発信そのものが楽しい

 自分の中で思っていること、考えていること、率直な気持ち、それを表に出すこと自体が楽しいのかもしれない*2。自己の表現であっりそれは楽しい。自分の発言によって人を楽しませることができたらなお楽しいだろう。会話でなくても、自分のうまくやった結果で、人を喜ばせることは楽しい。これは、②のスポーツの目的としても関連してくるだろう。

 

④つながっている感じが楽しい

 一体感、それは人間に共通する快楽の大きなものだと思うが、会話を通して相手との考えを共有し、一体感を得ることができる。そのため、楽しくなるのではないか。

 

 

 もちろん、会話の中には楽しい会話と楽しくない会話というのがある。その中で、一緒にいて楽しいとか、楽しい会話とはいったいなぜ、どのように成り立つのだろうか。そのように考えたとき、会話におけるボケとツッコミという役割のうち特にツッコミは非常に重要なものではないだろうか。ボケとツッコミというのは、会話をデザインする一つの手法だ。日常を劇的にというか、戯画的にというか、メリハリをつける数ある装置の一つだと言える。独りよがりなツッコミとか非難したいがためのツッコミというのもあるのだろうが、基本的にはツッコミは、相手のことをちゃんと聞いたうえでなされる相槌の一つである。その相槌の表現は、ツッコみ者の判断基準によって選ばれ、正しいこととおかしなことの境目をその相槌によって瞬間的に見えるようにする。そして、そのツッコミで提示された判断基準と、ボケ(とされた)発言のずれを見て楽しみというものだ(と私は理解している)。※ここで、例を提示したいが、考えるのがめんどうくさい。

 

 とはいえ、ここでのこのボケ-ツッコミ装置というのは形式であり、中身によって楽しさ、面白さを感じさせるものではないのかもしれない。ボケ-ツッコミ形式だけでもどうしようもなくつまらないものはこの世に腐るほど存在する。つまり、形式的な面白さもあれば、形式的でない面白さ(楽しさ)もあるのではないかということに気付かされる。それは、会話している内容、扱っている対象の面白さだ。たとえば、無味乾燥な仕事の倉庫整理の段取りの話を延々とするよりかは、この前見た面白い映画の感想をみんなで共有する方が面白い。この違いはいったいなんのか。むろん、倉庫整理の話が途方もなく面白く感じる稀有な人間もいるのだろうが、通常の人間は映画の話の方が好きだろう。

 

 そもそも会話とか関係なく、面白いとか楽しさというポジティブな感情はなんなのか、ということも考えてみなければこの会話はなぜ楽しいかという問題は埒が明かないような気がする。そもそも人それぞれ面白いと思うことが違うので、無意味な問いか? 面白いことの普遍性を追求するのは間違っているか? そうは思わないが…。*3

 

 この他に会話が楽しい要素を上げれば、話している相手が楽しい相手だから、馬が合うから、話が合うから、ということが考えられる。

 「話しが合う」「馬が合う」*4とはいったいなんなのか。性格や考え方が似ているということだろうか。そうすると、なぜ性格が似ていると楽しいのか。共感するからだろうか。そうすると、なぜ共感は楽しいのか、ということになるのだが、よくわからないが、一体感を得られることはみんな楽しくて気持ちが良いという私の理論でいえば、そこで共感が得られることは一体感を得られることに等しく、それが理由で打ち止めとなる。

 

 とにかく、人は会話をすることは楽しく、その会話の楽しさはいろんな要素があるとうことだ。人はどうしようもなく話し合わないと生きていけない。人と人は、わかろうとしなければならない。*5沈黙は金なりとかいうが、喋らない人は喋る人に比べて圧倒的に損をする。なぜなら考えていることが相手に伝わらないからだ。全て会話は楽しさを通じて一体感、連帯感、他者への通路を通じてその者とつながることを目的としている…。

 

 ただ、沈黙でのコミュニケーションの可能性、沈黙による会話の可能性がないわけではない。コミュニケーションでの沈黙が増えれば終わりなのかというとそういうわけでもないのだ。沈黙が、会話のない時間が、まったくコミュニケーションの断絶を意味しない地平が存在する。そして、そこへの到達を好ましく思って目指す者もいる。たとえば、よく、マッチングアプリの自己紹介などで「話さなくても落ち着く人がいい」みたいなことが書いてある、しかし、そこに至るためには会話をしてそれぞれの人となりを理解する過程が必要だ。それを飛ばして見知らぬ他人同士がそこに行けるはずがない(前世で出会っていたなら別だが)。始めにコミュニケーションありきだ。その過程で馬が合う/合わないも変容していくのかもしれない。

 

 

*1:ところで、人と話をしたいとき、それも自分のことを誰かに語りたいときはいったい自分はどういう状態にある時なのかよく考えてみよう。もしかしたら、そうすれば、話したい気持ちの真意がわかるのかもしれない。それは、寂しいとき、悲しいとき、嬉しいとき、何かを思いついたとき…? それはつまり、寂しさを紛らわせるため、悲しさをいやすため、嬉しいことを共有するため(自慢するため?)…など。こういうこととは別に、何でもないけど誰かと話がしたいということがあるのだろうか。それが寂しいときなのだろうか。「人と何を話したいか」と「人に何を話さねばならないか」は異なるが、これらとは別に「話すこと自体が目的」というものがある。しかし、話すこと自体が目的となるときとはいったいどんなときなのだろうか。それも寂しいときなのか。

*2: ふと思うのだが、自分の経験の切り売りでない会話、というのは可能なのだろうか。無理か。あるとすればどんなものか。

*3:会話での、面白いとか面白くないとかはランダム性、知識量、発想、テンポが要素をなしていてそれが決定しているように思うが、これに加えて参加主体の興味の対象かどうかということが大きいと思う。もしかしたら、「面白い」という語を用いているがかなり多義的であって、それぞれの用法で別のことを指示している可能性もある。また、面白さ(楽しさ)には、面白く感じることと、正しいかということや身がある内容なのかということは異なることも事実だ。間違っていても面白いこと、全然ためにならない無意味な内容でも楽しいことというのは山ほどある。そうすると、やはり形式的なときの面白さと中身を扱うときの面白さは面白さの意味が違うのではないか。

*4:会話において、馬が合うかどうかの確認の作業というものがたびたび発生することがある。たとえば、人に好きなものを薦める行為は、自分の感性と相手の感性とが一致するかの確認、もしくは一致させることを目的としているといえる。

*5:ちなみに、言語的なコミュニケーションの能力が低い者は身体のコミュニケーションの能力も低い。言語的なコミュニケーションに習熟していないものが、異性との性的接触をうまく行えるはずがない。そういう言語での他者理解というものは身体での他者理解と地続きになっている、と思う。

2020.10.04

 

 たぶん、くもり。一日中外に出ていなかったのでよくわからない。大変眠くて、際限なく寝てしまう。昨日もそうだった。今日は、17時間くらい寝たように思う、大体寝すぎるときは17時間くらい寝ているときが多い気がする。これが本当の私の中での必要な睡眠時間なのではないかと思えてくる。

 

 パソコンを昨日からラジオを流しながらつけっぱなしにしている。パソコンにとっては良くないことだと思うが、パソコンからぼそぼそとたどたどしく流れてくるラジオはなかなかいいものだ。どんな曲が流れてくるかもわからないので、クラシックの時もあればJPOPもあり、ロックもあれば、能や狂言だったりもする。日曜朝などによくNHKのチャンネルで伝統芸能の録音が流れているが、かなり落ち着いた気持ちになるのでBGMとして優秀かもしれない。そんなこんなでうちのパソコンは24時間以上の労働を余儀なくされている。

 

 寝すぎるのは水泳を始めたこと、寝る前にお酒を飲んだことが関係しているのではないだろうか。水泳は3か月前から始めているが、週一回~二回くらいで通っている。その疲れが蓄積しているのかもしれない。また、金曜日の夜は精神を解放させるために必ずお酒を飲むことにしているので、その影響で翌日もずっと眠くなるのかもしれない。この寝ている時間ってもったいないなぁと思いながらもいつの間にか夢を見ており、身体の暑い居心地が悪さで目覚め、水を飲み、用を足し、そして横になるといつのまにか眠っている。

 

 このブログの記事を書くまでの空白が大きく、いろいろなことがあったが、まあすべて書くのも面倒なので、特には書かない。それより、その都度その都度の物事をTwitterで記録しているので、後から見返すと日記のようになっており、見ていて楽しいし便利だ。

 

 Twitterにも投稿していないこととしては、ある出会い系サイトで仲良くなっていままでやり取りしていた人から9/9以降返信が来ていないということだ。外出のお誘いについて書いた瞬間返事が来なくなったので腹立たしいが、一回私の職場ではコロナ感染者ができているし(それも私の目の前の席のおばちゃん)、出てから一応二週間以上たって私も何も不具合がなかったのでそのように打診をしてみたわけだが、軽率な人間と思われたのだろうか。それともそもそも私とはどこかには行きたくなかったということなのだろうか。年下ではあったが、フィーリングというか、性格的にはいろいろしっくりくるような人だったので残念だ。同じ出身だったし、本も好きなところとかも話しやすかった。まあどんな顔かもわからないが。そのサイトは3年ほど続けたがさっき辞めた。もうやることはないだろう。それにしても暇、というか、張り合いがない毎日が続いている。勉強をしなければならないというのは変わらないのだが、その間にも刻々と年を取っていくという事実が不安で、脳の中に巣食っている気がする。新しい出会いというのを真剣に考えなければならない。

 

 どうでもいいが、(どうでもよくはないが)家族の介護とかそのへんのことが現実味を帯びてきつつある。準備をしておく必要があると思う。いまは、私には定職があるが、未来永劫安定している職ともいえない。その点を考慮すると結婚というのは将来のリスク分散という意味で重要だ。片方が職を失っても片方の収入が生きているということである。寂しいし、人間としての人生の課題を少しずつ突破しておきたいと思うので、結婚とかそれにまつわるその他諸々の解決を図りたい。