悩み相談の回答(おじさんの場合)

 一昨日の深夜、居酒屋にいたら、二十歳なりたてくらいの若者が周りのお客に悩み相談をしていた。仕事がうまくいかず悩んでいるようだ。私は特に何も言うことがなかったので(というか端的に興味が持てなかったので)、年長者の四十過ぎの男性が語ることを聞いているのみだった。悩みの内容は次のようなものだ。

 

 職場で昇進した。新しい作業を任されているのだが計算がうまくいかない。接客しつつ、インカムに入る情報を聞きながら計算するということがどうも苦手で失敗する。失敗すればもちろん怒られる。自分が怒られるだけならまだいいが、先輩も怒られるし、釣り金の計算間違いは信用問題にもなる。そう思うと重圧を感じてより失敗してしまう。あと3か月でこの作業をものにしなければならないのだが、どうしたらよいのかわからない。今までの先輩たちは全部できていたのに。

 

 年長者のおじさんは次のように回答していた。

 人の能力には限界があるし、それぞれ得意分野がある。計算が得意な人もいれば、接客が得意な人もいる。能力のレーダーチャートを考えてみよう、突出しているところと、欠けているところがあるはずだ。欠けているところを自分の能力だけでなんとか補おうとすることは無理だ。だから、長期的な視点では、できないことは自分ではなく得意な人に任せるのが一番だ。

 とはいえ、3か月でものにしなければならないとすれば、やはり何か自分なりの工夫が必要となってくるだろう。PCに例えると、メモリに限りがあるのであれば、増設を検討しなければならない。計算が苦手でかつ情報が速くて追い付けないということだったが、自身の脳内で処理ができないのであれば、紙に書きだすのはどうだろうか。あとは計算のお決まりのパターンを早見表にしてしまい、この数字だとこうだなと覚えてしまうような形にしてはどうか。自分のやりやすいやり方を見つけてやるのが一番だ。それから、だいたいの人間は天才ではない。だから、一度に複数のことはできない。接客はちょっとお客さんに「少々お待ちください」とか言って待ってもらい、その間に計算をする。そのあとに接客する、といったように一つずつ作業をしていくと良いのではないか。

 

 若者はこの回答に完全に納得していたわけではないようだったが、(すでに工夫していてできないのだけど、どうすればいいのか、というような雰囲気)おじさんはこう続ける。

 

 僕は会社に入り始めの若い頃、すごくいろんな人に怒られた。というか会社自体がちょっと普通じゃない会社で、怖い人たちがいっぱいいた。毎日怒鳴られるし、毎日23時くらいまで残業していたし、帰ろうとしたら「おい、スドウ(おじさんのこと。仮名である)、飯食いに行くぞ」と先輩に外へ連れ出された。昨日も一昨日も朝まで飲んだのに。何週間も家に帰れないような生活だった。あんまり朝まで飲むのが続くので、

「いえ…今日はさすがに電車あるうちに帰りたいんですけど…風呂にも入りたいし…」

と断ってみたら

「大丈夫、わかったよ、本当に飯食うだけだって。ちゃんと電車がある時間に帰してやる

と先輩から返ってきた。

それを聞いた僕は安心して「じゃあそれなら行きます」と付いていった。

そして、終電の時間になりそうな頃、そろそろ帰ろうとすると先輩がこう言いだした。

「おい、スドウ。何帰ろうとしてるんだ。まだ早いだろ」

「いえ…もう終電なのでそろそろ失礼させていただきます」

「お前、先輩と飲んでいるのに時間なんか気にしてるじゃねえ! 時計があるからいけないだ、時計貸せ」

そういうと先輩は僕の時計を没収した。

「あと、ケータイも出せ」

僕のケータイ(ガラケー)の表面部分にある時計が破壊された。そのあと、チューハイのジョッキの中に沈められてしまった。防水機能もないのでひとたまりもない。

「でも先輩!!ちゃんと終電のある時間に帰してくれるって言ったじゃないですか!!」

「馬鹿野郎!!! 電車のある時間ってのは始発のことだよ!! 電車なんか気にするな!! 空が明るくなってきたら『ああそろそろ帰る時間だな』と思って帰るようにすりゃいいんだ!!

 こういうことがたびたびあり、僕のケータイはそれから何個も壊された。また、お酒も飲む量もすごかった。焼酎の瓶が5分で空くようなペースで飲む。最初は焼酎の蓋くらいの大きさの器で一気に飲む。それからどんどんおちょこ、グラス、ジョッキというように大きくして飲む。そうしているうちにあっという間に焼酎がなくなった。アイスペールに焼酎をそのまま入れて飲むこともあった。そうしているとどんどん焼酎の瓶が空く度にキャップを重ねていったので、キャップが天井に届きそうなくらいになった。もちろん、トイレで何度も吐く。自分でもこれは吐いた方がいいなとわかるので、何度も吐いて手に吐きだこができた。人間、何度も吐いていると喉が切れて血が出る。吐くたびに血を吐いた。それから、血尿も出るようになった。本当にあの時代は死ぬかと思った。先輩も何度殺してやろうと思ったかわからない。朝まで毎日飲んで、僕だけ朝には出ないといけないから会社で毎日寝た。先輩は午後から出社なのに。数年くらいはその会社にいて、別の会社に移ったけれど、後から聞いたら先輩たちは僕を辞めさせようとしていたらしい。でもなかなか辞めなかったのでいろいろ試行錯誤していたようだ。その先輩たちとは今でもまだ付き合いがあるが、あの時の話は笑い話になっている。

 今の悩みは時間が解決すると思う。自分で考えて工夫しようとしてがんばっているのだから、きっとできるようになるはずだ。そんなに気に病むことはない。できる人はできる、できない人はできない、くらいの肩の力を抜いた気持ちで仕事の臨む方が逆にうまくいくと思う。怒られることはそのうち話のネタになる。怒られてもいいと思う。怒られるうちが華だ。期待されているから怒られるのだ。怒られないようになったらもうおしまいだ。とはいえ、この3か月間、やはりつらいかもしれないが、応援している。

 

 私自身はこのおじさんの話は何度も聞かされていたので1ミリも心に響かなかったが、若者はこの話を聞いてだいぶ元気づけられたようだ。おじさんは、若者を励ますことに全力を注いでいる感じだったので、その試みは功を奏したようだ。

 今おじさんの話を改めて書くと、思い出話と励ましのつながりが意味不明だが、みんな飲んでいたので気にしていなかったのだろう。

 とにかく、若者は少し元気になった。経験談、それも自分の悩みなど小さなものなのだな、自分はまだましなんだなと思えるような経験談は人に元気をもたらす。

 人が落ち込んでいるとき、問題の直接の問題が解決するかに関わらず、

①自分より悪い境遇の人間がいることを知ること

②自分と似たような悩んでいる人間(仲間)がいることを知ること

この二つのどちらかによって人は元気になるのだと思う。人間は一人だけ自分が悪い状況にいるのだと思うとどんどん落ち込むようにできている。

 

 こうして、若者の悩める心は、おじさんの話によって緩和した。しかしながら、このおじさんははっきり言って、全く良い人ではなく、むしろけっこう悪い人であり、いろいろアウトローなおじさんなのだが、そのことについてはまたの機会に書くことにしよう。

 

尊敬する人間の特徴

私はいったいどんな人を尊敬するだろうか。

尊敬とは、自分にないものを持ち、憧れる存在に対して、畏敬の念を持つことだ。

私は以下の特徴を持つ人を尊敬しがちだ。

1. いつもユーモアを絶やさない人
2. 苦境にあってもあきらめず、最適解を探そうとする人
3. 人にやさしい人
4. 文化に精通している人(本をたくさん読んでいる人)
5. いつも落ち着いて論理的な考え方ができる人
6. いざというときにははっきり物事を言う人(この人が来たらもう安心だ!と思わせるような人)
7. 自分にはない視点(考え)を持っている人
8. 約束を守る人


こんなところだろうか。 

「哲学は役に立たない」論に対する応答まとめ

 嫌味な人間からこのように言われることがある。「それって何の役に立つの?」

 そんなとき、どのように応答をすべきなのか(少なくとも私はどのように返すのが正解と思っているのか)をまとめてみたい。

 

 問いを受ける人が行っている事柄の種類にもよるかと思うのだが(というのは、世の中には本当にどんな意味においても役に立たないことが存在するので、そのようなことを行っている人にとっては申し訳ないが、役立たないのではと嫌疑をかけられるのも無理はないことだ)、今回の場合は、哲学という学問を学ぶ人にたいして発せられた問いだとしよう。「哲学って何の役に立つの?」

 

 ちなみに、哲学とはどんな学問なのか知らない読者諸氏に簡単に解説しておこう。哲学は人文学の一つであり、物事の根本的な概念について考え、その内実を明らかにしようとする学問である。その対象は多岐にわたり、真理、善悪、美を始めとして、存在、因果関係、芸術、神、科学、心、言語、論理、人生の意義、愛、他者、生死、意志、運命、価値…などといった形のない高度に抽象的な題材を対象としている。歴史は古く、古代ギリシャの時代から現代まで、幅広くこの問題設定は共有されている。そのため、2000年前のアリストテレスの著作を現代で読み解くということが行われる。このように、歴代の偉大な哲学者の思考にヒントを得ながら、上記の概念を分析し、分類し、整理していくというのが哲学だ。

 

 まずはじめに、当然のことだが、下記の前提があまり考慮されずに「何の役に立つのか」という文言は発せられているように思う。

 

・「役に立つ」かどうかは、主体が異なれば結果も異なるし、目的が何かによって異なる。

 

 

 どういうことか詳しく見てみよう。

 

①私にとって

A) 

 なぜ私は哲学を学ぶのだろうか。哲学は私にとって役に立っているのだろうか。私はどんな目的で哲学を学んでいるのか。

 まず、私が哲学を学ぶ理由は面白いからだ。知的好奇心を満たしたいからだ。その意味で哲学という学問分野は私の要求に応えうる芳醇な世界を有しているのであり、この意味で役に立っている。

 

B)

 では、よく想定されている「役に立つ」の意味としてはどうだろうか。つまり、哲学を学ぶことは私に経済的な豊かさをもたらすきっかけを与えるような方向に働くのだろうか。生活の中での必要な知識を供給するだろうか。また、哲学を学ぶことで何か有利な資格や能力が身につくのだろうか。

 

B)-1 

 まず、経済的な豊かさをもたらすことや生活向上の知識を得ること、資格については、答えは「いいえ」である。哲学を学ぶことは、有利な資格を得ることにつながるわけではない。また、哲学は、経済的に豊かになるような知識、生活に便利な知識を得られるわけではない。

 経済学や法学、医学、情報科学などの学問は、資格取得や就職後の社会で過ごしていくうえで有利になりうる。また、生活していくうえで誰もが関わらざるを得ないような種類の知識を扱っているため、学ぶことでその知識を生活の中で活用することができるようになるだろう。その学問は、学ぶことで経済的に有利な方向に働いたり、資格取得に有利だったりするようになる。

 このような点で哲学はまるで役に立たない。哲学を学んでも人の病気を治せるようにはならないし、良い投資の仕方が身に付くわけでも、民法上の問題を解決する手立てを知ることができるようにもならない。

 

B)-2  

 次に、能力が身に付くかどうかについては、「どちらともいえない」。というのは、能力がどのくらい身につくのかは、その個人がどのくらい勉強をしたのかによるからだ。どのような学問も学問であるからには、勉強をすればするほどその分野の知識が増え、どの学問においても必要であるような技術や能力は磨かれていくだろう。例えば、情報の検索能力や、批判的思考力、(論文や原著を読むのに語学が必要な場合は)語学力、論理的な文章作成能力、人と合理的・建設的に議論をする力の向上、(学会の発表などもあるとすれば)プレゼンテーション能力などである。

 哲学においては、とくに批判的思考力とか語学力、議論する力(必要であれば、独英仏を始めとして古代ギリシャ語やラテン語も)が向上すると言われている。

 したがって、学問自体が勉強すればするほど良いことしかないので、学問を修める上での共通した力が養えるとは言えるだろう。

 

 哲学を学ぶことは、B)-1の意味では役に立たない。哲学を学ぶ人は、主にA)の意味で学ぶはずだ。そうして、その中で副次的にB)-2の力を得ることになる。

 

 

②(哲学に興味のない)誰かにとって

C)

 哲学になんら興味のない誰かにとって哲学を学ぶと良い点はあるのだろうか。答えとしては、積極的に良いことは何もない。哲学は自分の興味関心を追求していくことが第一であり、その分野に面白さを感じないのであれば学ぶことですぐに良いことは何もない。

 

D)

 しかしながら、学問はすべてそれぞれの視点を持つ。法学は法的な視点を持ち、経済学は経済的合理性の上での視点を持つ。これと同様に哲学も哲学的な視点を持っている。そのため、新たな視点から物事を見ることによって、何らかの示唆を受けることがあるかもしれない。その示唆をきっかけにA)へとつながるかもしれない。学べば必ずというわけではなく、あくまで事故的な出会いのような形で勉強をすることの良さは訪れるだろう。ただ、これは哲学に限った話ではない。

 もちろん、B)-2でみた利点も学べばついてくる。

 

E)

 他に良い点として、哲学を学ぶことでその知識を自分自身の人生の中での諸問題を考えるときに生かすことができる。人が考えうる問題として頻度が高そうなもので言えば、人生の意義、愛、家族、死、自分とは何かなどだろう。そのような自分とか他者で悩んだとき、何か助けになることもあるのかもしれない。そういことを考えるとき、哲学はうってつけだ。しかも歴史もあるし。

 この点について言えば、そもそも人は経済的合理性とか社会的に求められる能力の向上、生活の向上を目的としてだけではどうにも生きていけないときがある。そのとき(根本的な問題を考えてしまいそうなとき、おおかた心が弱っているとき)に考える道筋を与えてくれるものがあるとすればそれは心強くはないか。この点はA)の人にも共通の利点と言える。

 

 

③社会にとって

F)

 最後に、社会にとって哲学は「役に立っている」のだろうか。この答えは「どちらともいえない」である。

 社会を劇的に良くする力を哲学は持つわけではない。インフラを整備することもなければ、画期的な科学技術を提供するわけでもない。しかし、人々が悩むとき、E)のようなときにはその悩む個人に光を差し伸べる可能性がある。そういう意味では社会を(というかその中の一個人の心の安定を)良くするといえるだろう。

 他には、哲学という選択肢があること自体が社会にとっては良い社会の指標であると言える。経済的に必要なものだけを求めていった場合に、多様性が失われ、なんとも息苦しい社会になることだろう。すべて実学というのはそれで良い側面もあろうが、上で述べたように人は必要なことだけで生きているわけではない

 それに、哲学という選択肢があること自体が、人々の自由を尊重していることを表している。哲学だけでなく、いろいろな選択肢があればあるほど、人々は自分の希望に沿ったものを選ぶことになるので、幸福になる(と思う)。学問が細分化され、多くの事柄が詳細に研究されることはそうでない状態よりも好ましいのではないだろうか。

 この点は基礎科学と応用科学の関係と似ているかもしれない。基礎化学は明確な形で社会に貢献するような仕事をしているわけではない。一方で、応用科学は産業や工業に必要なものをすぐに生み出している。ただ、応用科学は元ネタを基礎科学から得ている。基礎科学では長い研究があり、そしてその長い研究期間の中で、初めて成果が出てくる。そうしてその一端を応用科学が拝借して産業に応用しているのだ。つまりは、短期的に「役に立つ」ことだけが役に立つということではない。

 哲学や人文学もこれと同じようなことが言えるのかもしれない。長期的なスパンで見れば人文学、ひいては哲学は文化や他の学問に大きな影響を与えてきた。文化の成熟や新しい視点をもたらすことを促した。このようなことは人文学がなければ起こらなかったことだろう。このように社会には、すぐには不要、何のために存在しているのかわからないようなものが長期的な視点では役に立っているということがある。そういった意味で哲学が存在していることは文化的な(学問的な)成長可能性の育成という意味も有している。

 このことを書いていて、生態系のことが頭によぎった。蚊は人間にとっていらない生物だが、かといって絶滅させてよいかと言えばそういうわけでもない。ゴキブリだってそうだ。カエルが嫌いだからと言ってカエルを消せば、カエルが処理していた虫たちが大量発生して困るようになる。そういう関係が学問にもあると思うし、多様性というのは何かの役に立たないからこれを排除しよう、というものではない。いるからには何か意義があるのではないか、もしくは、意義があるから存在しているのだ、と考えるほうが理にかなっている。

 

 ・まとめ

 以上から、「哲学って何の役に立つの?」という問いには次のような回答が考えられる。

A) 面白いからおれの知的好奇心を満たすことに役立ってるよ。そもそもそういうこと考えることが好きだから。

B)-1 まあ、飯食っていくのには役に立たないし資格とかは取れない。

B)-2 けど、それなりに勉強している人は語学とかできるようになるし、批判的思考力とかつくよ。どの学問もそういうとこはあるけど。

C)  興味ないなら良いことが絶対あるとは言えないから勧めないけど、

D) 普通の考え方とかはしないから、お前もやってみたら新しい発見があるかもよ。

E) ほら、あとはもし根本的な問題について悩んだときとかに参考になるしさ…。

F) どのみち、政治経済法律だけでお前だって生きているわけじゃないでしょ? 文化的なものがないときついし、休日には漫画も読めばゲームもするよね。本を読んでいるとき、ゲームをしているとき、流行りの歌を聴いているとき、愛やら平和やら生や死、社会についてやらいろいろまことしやかに出てくると思うんだよね。それについて薄っぺらい考えを展開されるよりもよく考えられてた方が面白い。というか、そんな薄っぺらいものに騙されたくないし、騙そうとしている社会のことを逆に喝破したりしたい。そういう意味で哲学を学ぶことは、文化の成長に貢献していることでもあるし、ひねくれることでもあるんだと思う。あとは、たとえば時には、お前だって曲がりなりにも人なんだから、自分の存在意義に悩んだり、アイデンティティとか失ったりするのかもしれない。そもそも、そういうことを(愛や生死、人生の問題を)、人は必ず考えてしまうようにできていると思う。そのとき何かヒントになるものがあったらいいなって思うし、それで悩みから救われる人もいると思う。なんというか、すぐには役に立たないけれど、人生を豊かにすることには一役買っていると思うよ。というか、哲学に限らず、教養っていうのはそういうものだわ

 

黙祷について

 黙とうとはいったいなんなのか。

3/11 14:46 や 8/15 12:00 に私たちは黙祷をする。黙祷は黙って俯き、目を閉じる。祈りの一種だ。

 

 歴史的な事件、節目について思いを馳せるということにはどんな意味があるのか。忘却に抗うため、反省するため、ということだろうか。

 

 3/11 14:46では、その時刻を起点に、短期間で多くの人が亡くなった。死者行方不明者合わせて18,428人だ。にわかには信じがたいことだ。私は今日もこうして生きていて、生活している。その一方で多くの「私」の世界は終わってしまった。災害が起こらなければ、今も私のように生きていたはずの者たち、あったはずの風景。黙祷は、その永遠に失われた可能性に思いを馳せる時間である。

 

 終戦記念日はその日を境に、戦争が終わりを告げた。日本は負けた。大きな転換点である。物理的な世界が大きく様変わりするわけではないが、その時点でひとつの区切りがつけられた。今までその見えない事象に全力投入していた国民たちはその事象から離れ縛られる必要はなくなった。縛るもの自体が、消え失せたのだ。

 

 そして、その転換点について後世の我々は黙祷する。多くの人々の死に、その起点からの時の流れに、がんばりに。わたしたちは、区切りのないものに区切りを入れてなんとか気持ちを落ち着けて生きている。

 

取り急ぎ、何かして、進んで、また戻って直して、また進む

 業務上で、判断を迫られることが多々ある。というか、仕事とはそういうものだ。自分のあまり興味のない題材について(一般論である。もちろん興味のある話題であることもあるだろう)、最も合理的な選択を選び取るという営みの総体。

 

 その中で基準の作成ということの重要性を痛感する。たとえば、あるデータの集合があり、そのデータの数字を一定の基準でもってして数字の妥当性を確認するものと、そうでないものに分けなければならないとしよう。このとき、ほかの業務の都合によってデータの区分けの基準を決めるのだが、どのへんの数字から分けたらいいのかについて、マニュアルなどはない。自分で判断して、この業務についてだったら、この数字は見なくていい、でもこっちは関係あるから確認しなければならない、というようなことを自分自身で判断する。その判断はある程度自分で基準を持って、その基準に従って統一して区分けしなければならない。(そうしなければごちゃごちゃになるし、ほかの人が手伝おうとしても何が何だかわからなくなる、それに、質もばらばらになるだろう)

 

 例が下手すぎてわかりにくいのだが、仮の足場を作る。それに従って、作業をとりあえず、先に進めていく。間違いがあればまた戻って(足場に従って)作業を修正すればいい。しかし、元の組んだ足場がおぼつかないと崩れ落ちて作業全体が立ち行かなくなる。その最初の仮の足場を作る作業が自分の裁量に完全にかかっているので難しいのだ。

 これは、人生に通ずる精神だと思う。つまり、見切り発車で、後で帳尻を合わせていくというやり方だ。何事も。完璧主義が悪である。我々にそんな時間はない。確固たる基盤を作ってから物事を行うのでは遅いのだ。というか、そんなときは来などしない。生の時間は有限である。先手必勝であり、行動したものが勝つ。ただ、リスク管理をして、あとから修正できるような余地を残しておかねばならない。

 

 絶対的に不変なもの、普遍なものはそうそうない。食べ物を摂取しない生物はぜんぜんいない。壊れない家はない。劣化しないパソコンはない。何か行動する、利用する、活動する、呼吸する、考える、その他諸々。一時的なかりそめの機構の上で発現されている状態にすぎない。絶対的な安定した基盤の上(不滅であり、普遍であり、不変であり、不死であり、永遠であり…など)に行われるものではない。それを理解して、生きていかなければならない。

 

 万物は流転するというか、諸行無常というか、そんな感じのことだ。生物的な話では、動的平衡とか。エントロピー増大の法則に抗って生きていることを忘れてはならない。

 

 だから、悪の組織が「永遠」を求めていたりするのだが、あれは永遠であるということの意味についてよく考えているのだろうか。浅い永遠概念に基づいてはいやしまいか。基本的に世界は移り行くものなのである。その中で、永遠とか普遍、不変というのはいったいどういうことなのかを考えなければならない。それは果たして有限極まりなく、移ろいやすい生き物や人間の創り出す組織の上に帰属できる性質なのだろうか。

 

2020.03.10(火)

小雨。

 

朝起きたら、7時半だった。急いでシャワーも浴びずに部屋を出る。走った。どうにか間に合う。汗だくで車内。本は読めない。

 

まず、会社に着いたら歯を磨いた。昼は竜田揚げ弁当。あっという間に気付いたら、夕方。帰りにスーパーで辛いカップ麺を買った。友人が好きなやつで、なかなか見かけなかったので、三つほど買った。ビールと一緒に食べた。最近は夜中は豆腐とビールだけダイエットを勝手にやっていたのがこれで終了である。とても辛いが、おいしい。もっと買ってしまうかもしれない。

 

古いパソコンを友人にあげるために起動した。あれ?今のパソコンより起動時間が速いぞ?なぜだろう…しかもメモリは2Gで、CPUはInteli2。でも全然動くのでこのままあげてもいいかもしれない。とりあえず、初期化の方法はわからないが、不必要と思われるものをアンインストールした。

 

 

2020.03.09(月)

晴れ。少し暖か。

 

あまりよく眠れなかった。布団が暑すぎる。ちょうどよい温度で寝たい。

コロナウィルスで世間が時差出勤を行っていると言えど、いつも電車はそこそこ混むので秋葉原を越えるまで本が読めない。依然としてグッドマンの言っていることがわからない。

 

いくぶんぼーっとしながら日中を過ごす。知らない間に仕事が進んでいく。というか、そのくらい簡単な作業の連なりなのだ。ただ、ともに働く、老人たちがよく作業を間違える。同じことを何度も聞く。遅い。年寄りの認知能力の低下は異常だ。老人のうち一人は作業がままならず、我々職員が仕事を調整して渡しているという始末だ。しかも本人に気付かれずに気持ちよく働いてもらおうというのだから骨が折れる。なんだか本末転倒な気もする。老いたくはないものだ。

 

帰りにネットカフェに寄った。借りパク気味になっていたカードーキーを返却した。店員が女子アナウンサーの誰かに似ている。あとほっそりとしたギャルがいる。談笑をしているのがうらやましい。その前を通り抜けて私はソフトクリームをもそっと盛り付け、コンポタージュをカップにそそぐ。自分の席で漫画を調べながら食べたが、このネットカフェは異常に漫画の品ぞろえが少ない。読みたい漫画がない。もう居る気が失せてきたので、早々にソフトクリームを平らげて店を後にした。

 

買い物をして家に帰ると、ノートパソコン用の増設メモリが届いている。ビールを飲んだ後に、増設作業を開始した。手術は成功した。術後の容態は良好。というか、爆速になった。いままでの4Gメモリの生活がいったいなんだったのろうかというレベルだ。12Gになった。早くするべきだった。しかし、パソコン自体がそんなに性能が良いものでないし、古いのであんまり持たないだろう。クラッシュをいつしてもいいように、WEB上のドライブなどを利用しながら日々の作業を行うとしよう。でもそんなになくなって困るものってないかもしれない。せこせこまとめている文章と、メモくらいではないか。私はあんまりパソコンを使っていないのではないだろうか。