Q1-1.なぜ人との会話は楽しいのか?
なぜ他人がいると楽しいのか。それは寂しくないから。きっと予測不可能なことがたくさんあるからだし、一人ではできないことができるから。そういった、いろんな理由はあるだろうけれど、他人がいたらどうにも必要になってくることといえば、会話だ。人が複数いれば会話が生まれる。そして、それは他人といると楽しいという気持ちにつながる大きな要素だ。むしろ、それが他人がいることの重要性として、一番土台にあると言ってもいいだろう。
人と話したい気持ち*1、というのはけっこう無自覚に強く、一人のときにはそうでもなかったけれど、他人と話していて言いようのない楽しさを感じることがある。感情が発生したら、それを共有したいし、そうでなくてもたまには誰かと意思の疎通を図る行為をしたいという志向性がどうやら私たちには組み込まれている。(反対に、どうにもコミュニケーションを取りたくなく、一人になりたいというときもある)。
しかし、なぜ会話やおしゃべりは楽しいのだろうか。その理由を考えてみよう。以下に思いついたものを述べる。
①自分以外の考えがわかる
つまり、新しい発見がある、他人の思っていることはふだんはわからないけれども、言語という道具を使うことによってはじめてその中身が少しだけ垣間見える。それが楽しい。
②偶発性と即興性
偶然の要素が他人がいることで多分に含まれてくる。つまり、相手のことは予期できないことがある。その中で即興的に理解して自分からまた言葉を繰り出す。これは一種のスポーツのような楽しさなのかもしれない。
③発信そのものが楽しい
自分の中で思っていること、考えていること、率直な気持ち、それを表に出すこと自体が楽しいのかもしれない*2。自己の表現であっりそれは楽しい。自分の発言によって人を楽しませることができたらなお楽しいだろう。会話でなくても、自分のうまくやった結果で、人を喜ばせることは楽しい。これは、②のスポーツの目的としても関連してくるだろう。
④つながっている感じが楽しい
一体感、それは人間に共通する快楽の大きなものだと思うが、会話を通して相手との考えを共有し、一体感を得ることができる。そのため、楽しくなるのではないか。
もちろん、会話の中には楽しい会話と楽しくない会話というのがある。その中で、一緒にいて楽しいとか、楽しい会話とはいったいなぜ、どのように成り立つのだろうか。そのように考えたとき、会話におけるボケとツッコミという役割のうち特にツッコミは非常に重要なものではないだろうか。ボケとツッコミというのは、会話をデザインする一つの手法だ。日常を劇的にというか、戯画的にというか、メリハリをつける数ある装置の一つだと言える。独りよがりなツッコミとか非難したいがためのツッコミというのもあるのだろうが、基本的にはツッコミは、相手のことをちゃんと聞いたうえでなされる相槌の一つである。その相槌の表現は、ツッコみ者の判断基準によって選ばれ、正しいこととおかしなことの境目をその相槌によって瞬間的に見えるようにする。そして、そのツッコミで提示された判断基準と、ボケ(とされた)発言のずれを見て楽しみというものだ(と私は理解している)。※ここで、例を提示したいが、考えるのがめんどうくさい。
とはいえ、ここでのこのボケ-ツッコミ装置というのは形式であり、中身によって楽しさ、面白さを感じさせるものではないのかもしれない。ボケ-ツッコミ形式だけでもどうしようもなくつまらないものはこの世に腐るほど存在する。つまり、形式的な面白さもあれば、形式的でない面白さ(楽しさ)もあるのではないかということに気付かされる。それは、会話している内容、扱っている対象の面白さだ。たとえば、無味乾燥な仕事の倉庫整理の段取りの話を延々とするよりかは、この前見た面白い映画の感想をみんなで共有する方が面白い。この違いはいったいなんのか。むろん、倉庫整理の話が途方もなく面白く感じる稀有な人間もいるのだろうが、通常の人間は映画の話の方が好きだろう。
そもそも会話とか関係なく、面白いとか楽しさというポジティブな感情はなんなのか、ということも考えてみなければこの会話はなぜ楽しいかという問題は埒が明かないような気がする。そもそも人それぞれ面白いと思うことが違うので、無意味な問いか? 面白いことの普遍性を追求するのは間違っているか? そうは思わないが…。*3
この他に会話が楽しい要素を上げれば、話している相手が楽しい相手だから、馬が合うから、話が合うから、ということが考えられる。
「話しが合う」「馬が合う」*4とはいったいなんなのか。性格や考え方が似ているということだろうか。そうすると、なぜ性格が似ていると楽しいのか。共感するからだろうか。そうすると、なぜ共感は楽しいのか、ということになるのだが、よくわからないが、一体感を得られることはみんな楽しくて気持ちが良いという私の理論でいえば、そこで共感が得られることは一体感を得られることに等しく、それが理由で打ち止めとなる。
とにかく、人は会話をすることは楽しく、その会話の楽しさはいろんな要素があるとうことだ。人はどうしようもなく話し合わないと生きていけない。人と人は、わかろうとしなければならない。*5沈黙は金なりとかいうが、喋らない人は喋る人に比べて圧倒的に損をする。なぜなら考えていることが相手に伝わらないからだ。全て会話は楽しさを通じて一体感、連帯感、他者への通路を通じてその者とつながることを目的としている…。
ただ、沈黙でのコミュニケーションの可能性、沈黙による会話の可能性がないわけではない。コミュニケーションでの沈黙が増えれば終わりなのかというとそういうわけでもないのだ。沈黙が、会話のない時間が、まったくコミュニケーションの断絶を意味しない地平が存在する。そして、そこへの到達を好ましく思って目指す者もいる。たとえば、よく、マッチングアプリの自己紹介などで「話さなくても落ち着く人がいい」みたいなことが書いてある、しかし、そこに至るためには会話をしてそれぞれの人となりを理解する過程が必要だ。それを飛ばして見知らぬ他人同士がそこに行けるはずがない(前世で出会っていたなら別だが)。始めにコミュニケーションありきだ。その過程で馬が合う/合わないも変容していくのかもしれない。
*1:ところで、人と話をしたいとき、それも自分のことを誰かに語りたいときはいったい自分はどういう状態にある時なのかよく考えてみよう。もしかしたら、そうすれば、話したい気持ちの真意がわかるのかもしれない。それは、寂しいとき、悲しいとき、嬉しいとき、何かを思いついたとき…? それはつまり、寂しさを紛らわせるため、悲しさをいやすため、嬉しいことを共有するため(自慢するため?)…など。こういうこととは別に、何でもないけど誰かと話がしたいということがあるのだろうか。それが寂しいときなのだろうか。「人と何を話したいか」と「人に何を話さねばならないか」は異なるが、これらとは別に「話すこと自体が目的」というものがある。しかし、話すこと自体が目的となるときとはいったいどんなときなのだろうか。それも寂しいときなのか。
*2: ふと思うのだが、自分の経験の切り売りでない会話、というのは可能なのだろうか。無理か。あるとすればどんなものか。
*3:会話での、面白いとか面白くないとかはランダム性、知識量、発想、テンポが要素をなしていてそれが決定しているように思うが、これに加えて参加主体の興味の対象かどうかということが大きいと思う。もしかしたら、「面白い」という語を用いているがかなり多義的であって、それぞれの用法で別のことを指示している可能性もある。また、面白さ(楽しさ)には、面白く感じることと、正しいかということや身がある内容なのかということは異なることも事実だ。間違っていても面白いこと、全然ためにならない無意味な内容でも楽しいことというのは山ほどある。そうすると、やはり形式的なときの面白さと中身を扱うときの面白さは面白さの意味が違うのではないか。
*4:会話において、馬が合うかどうかの確認の作業というものがたびたび発生することがある。たとえば、人に好きなものを薦める行為は、自分の感性と相手の感性とが一致するかの確認、もしくは一致させることを目的としているといえる。
*5:ちなみに、言語的なコミュニケーションの能力が低い者は身体のコミュニケーションの能力も低い。言語的なコミュニケーションに習熟していないものが、異性との性的接触をうまく行えるはずがない。そういう言語での他者理解というものは身体での他者理解と地続きになっている、と思う。
2020.10.04
たぶん、くもり。一日中外に出ていなかったのでよくわからない。大変眠くて、際限なく寝てしまう。昨日もそうだった。今日は、17時間くらい寝たように思う、大体寝すぎるときは17時間くらい寝ているときが多い気がする。これが本当の私の中での必要な睡眠時間なのではないかと思えてくる。
パソコンを昨日からラジオを流しながらつけっぱなしにしている。パソコンにとっては良くないことだと思うが、パソコンからぼそぼそとたどたどしく流れてくるラジオはなかなかいいものだ。どんな曲が流れてくるかもわからないので、クラシックの時もあればJPOPもあり、ロックもあれば、能や狂言だったりもする。日曜朝などによくNHKのチャンネルで伝統芸能の録音が流れているが、かなり落ち着いた気持ちになるのでBGMとして優秀かもしれない。そんなこんなでうちのパソコンは24時間以上の労働を余儀なくされている。
寝すぎるのは水泳を始めたこと、寝る前にお酒を飲んだことが関係しているのではないだろうか。水泳は3か月前から始めているが、週一回~二回くらいで通っている。その疲れが蓄積しているのかもしれない。また、金曜日の夜は精神を解放させるために必ずお酒を飲むことにしているので、その影響で翌日もずっと眠くなるのかもしれない。この寝ている時間ってもったいないなぁと思いながらもいつの間にか夢を見ており、身体の暑い居心地が悪さで目覚め、水を飲み、用を足し、そして横になるといつのまにか眠っている。
このブログの記事を書くまでの空白が大きく、いろいろなことがあったが、まあすべて書くのも面倒なので、特には書かない。それより、その都度その都度の物事をTwitterで記録しているので、後から見返すと日記のようになっており、見ていて楽しいし便利だ。
Twitterにも投稿していないこととしては、ある出会い系サイトで仲良くなっていままでやり取りしていた人から9/9以降返信が来ていないということだ。外出のお誘いについて書いた瞬間返事が来なくなったので腹立たしいが、一回私の職場ではコロナ感染者ができているし(それも私の目の前の席のおばちゃん)、出てから一応二週間以上たって私も何も不具合がなかったのでそのように打診をしてみたわけだが、軽率な人間と思われたのだろうか。それともそもそも私とはどこかには行きたくなかったということなのだろうか。年下ではあったが、フィーリングというか、性格的にはいろいろしっくりくるような人だったので残念だ。同じ出身だったし、本も好きなところとかも話しやすかった。まあどんな顔かもわからないが。そのサイトは3年ほど続けたがさっき辞めた。もうやることはないだろう。それにしても暇、というか、張り合いがない毎日が続いている。勉強をしなければならないというのは変わらないのだが、その間にも刻々と年を取っていくという事実が不安で、脳の中に巣食っている気がする。新しい出会いというのを真剣に考えなければならない。
どうでもいいが、(どうでもよくはないが)家族の介護とかそのへんのことが現実味を帯びてきつつある。準備をしておく必要があると思う。いまは、私には定職があるが、未来永劫安定している職ともいえない。その点を考慮すると結婚というのは将来のリスク分散という意味で重要だ。片方が職を失っても片方の収入が生きているということである。寂しいし、人間としての人生の課題を少しずつ突破しておきたいと思うので、結婚とかそれにまつわるその他諸々の解決を図りたい。
Q1. 人間が楽しいと感じることの条件や要素は何か?
人生の意味は誰もが直面する哲学的問題だ。「あなたにとって人生の意味はなんですか?」という問いに対する、素朴な一つの回答として、「楽しいことをすること」という回答は世間の多くの人々にとってすぐに思いつくものではないだろうか。せっかく生を得ているのだから、人生を楽しまなけれれば意味がない、楽しくなければ生きている意味がない、というように。
では、私たちは人生の中で何について、最も楽しい、気持ちが良いと思うのだろうか。毎日の中で、何か楽しみがあると楽しく過ごすことができるのは間違いがない。日常の中で、楽しみがあるのとないのとでは大違いだ。ここに私の興味がある。つまり、人はなぜ生きるのか、何を楽しみにして、何を目標にして生きるのか、ひいては、希望とは何か、という問いについてだ。何が精神的に人を生かすのか、人を生き生きとさせるものは何かと言ってもいい。日常の中で、小さな楽しみ=希望があるだけで、人間は生きていける。
もちろん、この問いの状態では非常に大雑把であるため、様々なこととごちゃ混ぜになり、問いに対する答えや道筋を示すことが難しいかもしれない。そもそもこの問いは哲学的な問い、というよりは、感情の原因を探るような問いであるので、心理学や認知科学、文化的な側面により注目するのであれば社会学的な観点から探求できるだろう。
しかし、どのような分野のどのような問いの形にすれば考えやすいのか私には今の段階ではわからないので、さしあたっては、「人生の中で、人間が楽しいと感じること、生きがいと思うことは何か、その条件や傾向性はどのようなものか」という形でだけ問うておくことにしたい。
人によって楽しいと感じることは千差万別であるため、この問いに対しては、様々な回答がありうる。街行く人に「お前の楽しみは何か」と訊いて回れば、各人多様な答えを返してくることだろう*1その中にはきっと、「食べること」「セックス」「寝ること」といった三大欲求に基づいたものもあれば、その欲求のうえに存在する、「人に認められること」(承認欲求)、「自分の目標を達成すること」(自己実現)、「面白いものを調べたり考えたりすること」(好奇心?)などの社会的な欲求もありうる。
私は、その欲求の中で、社会的な欲求が人間にとって楽しみをもたらす大きな役割を持っているのではないか、と思うようになってきた。むろん、三大欲求のもたらす快楽というのは底知れない。フロイトは性欲を人間の根底に置いたほどなので、人は性について相当強い志向性を持ち、追い求めることは確かだ。*2しかし、そのような生理的な欲求を除いても、人間にとってはどうしようもなく楽しいことが残されている。私がそう感じたその中の一部を以下に記してみよう。
- 好奇心/新しいことを知ること
好奇心、すなわち、「続きが気になる」という最強のうれしい呪い。私が楽しいとか面白いと感じる感情の中では、「その先が知りたい」という言葉で表すことができる感情が最も強力であるように思う。*3そして、学術や文化的なものとの結びつきがかなり強い。物語の先が知りたい。この構造が知りたい。動物の種類が知りたい。など。*4
もはや、どの項目がどれに包摂されるのか、どのようにつながるのか、はたまた、違いは実はなくて同じものなのか、ということが曖昧になっているのだが、以下の事も上のことと関係しつつ楽しさを形成している。
- 自分で主体的に決めて、自分でものを作り上げること
自分でルールを決め、その範囲内でどのくらいうまくできるか試みることは楽しい。先を読んで、自分の思い通りになったら、楽しいだろう。計画とその実行により、結果がもたらされることが楽しさにつながっている。
このルール(計画)を作って実行していくことは、勉強にたとえると、予習の楽しさとでもいおうか、知ることのの楽しさにつながることができる。つまり、上に挙げた好奇心と表裏一体となっている。復習は能動性を損ねるが、予習は能動性と相性がいい。自ら世界を学ぶことによって、日常の世界のすべてを復習にすることができる。自分の疑問を持ち、本気で何事かを考えると、世界が答え合わせになりうる。そして、それは楽しく面白い。
- 何かを始めること、何かが始まることを目の当たりとすること
何かを始めるということ、始まりがどうしようもなく楽しい。*5
変化の兆し。見慣れた日常のひび割れ。慣れはかなり特殊な能力で、慣れると良いこともあるのだが、慣れてしまうことで、退屈という怪物を人心に招き入れてしまう。そうしたら、何か新たな要素を自分に取り入れなければいてもたってもいられなくなる。そう、やはり、この何かを始めること、というのも。どうしようもなく、自分で計画して何かを行うことや新しいことを知ることに結び付いている。しかし、私はこれらをどのようにうまくカテゴリに分けたらいいのか(また、それとももっと根本的な共通要素を抽出したらいいのか)今のところは見当がつかない。
- 自分が何かに貢献すること、役に立つこと、役割を発揮すること
自他ともに認めている自分しかできないことをやり、それを成し遂げるということには楽しさがある。これは単に承認欲求だ、ということで片付けられるのかもしれないが。
- 熟練の知識や技術を使って物事をなすこと
何かしらについて熟練した知識を持っていることはかっこいいことだ。そして、その知識を持っている者にはその知識を使っての特定分野においてのある楽しみがある。その知識を道具としてうまく使いこなせることの楽しみというものが。先ほど書いた慣れのもたらす良い側面とはこのことだ。慣れることは熟達をもたらす。そして、このことは自分の目標追求という点で(自分のルールに従った創造という点で)新たな楽しさに接続しうる。老人たちがリタイア後に今まで関わってきた仕事の知識を生かして子供たちに教える、武道の達人が100の道場やぶりを成し遂げようとする、朝起きてから駅に着きまでの最速タイムを更新しようとする、など。老人の例は役割の楽しさにもつながっているだろう。
- 好きな物を集めること
入れようか迷ったが、これも明らかに楽しい。自分のいいなと思った画像を集めていつでも眺められるってことはなんて幸せなことなんだろう。*6たとえば、アイドルの写真集とかはその目的で作られているだろう。画像に限らず、文章でも、音楽でも、物でもコンセプトでもなんでもだ。しかし、なんで人間はいろんなものを集めるのか。それは集めるのが楽しいからだ。集めることによって自分の世界を形作っているのだ。そう考えると、この楽しさも主体的にルールを決めて実行する、ということに含まれるのかもしれない。
- コミュニケーションを取ること
これについては会話の楽しさ、ということに注目したい。ただし、話が長くなりすぎるので、この記事とは別にまとめたいと思う。
- 身体を動かすこと
身体を動かすだけで楽しい。だから人はスポーツをするのだが、スポーツはこれにルールが加わるし、技術の行使も加わる。チーム戦であれば、役割の楽しさも加わるだろう。
以上、思っていたことを取りとめもなくまとめてみたが、ここで微力ながら、これらの共通要素を無理やり導き出してみたい。おそらく、人間はきっと、動きのある事(止まっていないこと、流れていること)が好きなのではないか。そして、動いていること通じて自分の世界を形作ったり、拡張したり、充実させることが好きなのではないか。それが楽しいことの共通点なのではないか。
原子論的な考えにはなるが、楽しいと感じられることの要素を特定すれば、あらゆる楽しいことがその複合的なものとして説明ができるのではないか、という気持ちがある。ここで挙げた以外にも人間が楽しいと感じることができる原子(原子楽?)が多くあるだろう。社会の中で面白い、楽しいとされていることは、これらの楽しいことが組み合わさっていることはまず疑いがない。
たとえば、それは、仕事をこなす楽しさであったり、ゲームをする楽しさなのだと思う。仕事をしているとき忙しく立ち回る一日があるがその中にも感じる楽しさ、というものがある。もちろん、疲れるし、この忙しい状態がずっと続けば心を病んだり身体を壊すだろう。しかし、この没頭している感覚にある種の心地よさを感じる。特に、知識や技術が自分のものとなった、手慣れた仕事をこなしているときには、何か完成されていることを行なっている感覚がある。自分のやり方を通じて、自分の世界を形作ることに心地よさを感じているのではないか。ゲームも同様だ。
とりあえず、以上、まとめてみた。
*1:もしかすると、計量的に答えを探すのもいいのかもしれない。たとえば、社会調査を行い、多くの人間たちに「あなたが人生の中での生きがいは何ですか?」などの項目を設けたアンケートを実施して、その傾向を把握するなどだ。
*2:この論点から言えば、睡眠欲をすべての行動の根底に置いた精神分析の体系や、食欲を根底に置いた体系が考えられるたりするのだろうか?
ところで、性欲と食欲睡眠欲はしばしば混然一体となって認識されることが人間にはあるように思う。言語表現にその傾向が表れているのではないか。「食べちゃいたいほどかわいい」。性欲と食欲の結びつきはかなり強そうだ。性的なことは口を使うし…。また、睡眠欲と性欲のつながりで言えば、性的な営みは寝床で行われるし、「寝る」ことは性的行為を意味する…食欲と睡眠欲のつながりは薄そうだ。食べたら、眠くなる、くらいの連想しか思いつかない。これら三つの欲求は性欲を媒介として一体となる、ような気がする
*3:もしかしたら、自分が何かに強く惹き付けられてそのことしか考えられなくなっている状態は、ほとんどの場合楽しかったり、面白かったりすることと同じなのかも知れない。
*4:ちなみに、世界が広がるとは新しい検索語を見つけることだ、という文言が『弱いつながり 検索ワードを探す旅』(東浩紀/幻冬舎文庫)という本の中で出てくるようだ。読んだことはないが、人生の楽しいものを探す行為と検索ということの結びつきは切り離せないものになっているような気もしないでもない。だって、新しく調べたいことをネットで検索しているときってかなり楽しいので。
*5:ちなみに、終わりは新たな始まりを予感させるものだから逆に良いように見えるのではないか。あとは、「作り上げる」「完成させる」「区切りをつける」ということ意味するため、人間社会において、終わるということが良いとされる場合はそのような観点でとらえているのではないか
*6:人には好みというものがある。単に物を集めると言っても、集める物が人で全くことなる。なぜこのような、違いが出てくるのだろうか。そもそもなぜ好みがあるのか、好みはいかに形作られるのか、ということは興味深い主題だ。脳内の神経細胞の接続の違い、環境の違い、遺伝子の違い、外界に接する身体というインターフェイスの違い、諸々の影響によって形成されて性格によってさらに得られた経験の違い…などなどによって説明されるのだろうか。
2020.06.22
強めの雨。一日雨だった。明日も雨らしい。
今日は危なかった。昨日は五反田の蕎麦屋で飲み食いしたのだが、そのあとに地元の駅前の居酒屋で遅くまで飲んでいたせいで朝寝過ごすところだった。酔った勢いで友人にLINEを送っていて、そのとき、モーニングコールしてほしいと言っていたのが功を奏して、会社に遅刻せずに済んだ。九死に一生を得た。私の会社ははちゃめちゃにゆるいところがあり、これまで遅刻しても許されていたのだが、もはや完全に目を付けられるようになってしまったため、二度と遅刻はできないような状態だ。本当に助かった。今後は翌日が休みの日以外は飲まないことにしよう。それにしても、6時半に起こしてほしいと伝えて、ちゃんと6時半に電話してきて、それに私も返答をし、二度寝したのだが、そのときの返答を信じず、8時にまた電話をしてきたところがすごい。友人、私の特性をよくわかっている。あと10時出社でなかったらアウトだった。
ところで、昨日の飲み会では、女子が年上の男性に好意を抱いている様子、というのがはっきりわかる状況を目の当たりとしたのだが、羨ましい限りだった。もてる、というのはいったいなんなのだろうか。フェロモンなのかと思わされるような一場面だった。きっと背筋が伸びている、顔の作りではなくむしろ頭の小ささとか、姿勢の良さ、身体全体のバランスが良い、ということが大きく関係するように思う。その女子は結局泊まるところがなかったので、その男性の家に泊まったと思われるのだが、その夜はもう完全にあれだろう。
出社してからは、通常通り事務作業を行い、昼飯はサラダ巻きだけ食べた。酔っぱらっていたような感じが続いていて、完全に二日酔いだったが、コーヒーがなんともおいしく感じた。そういえば、会社の自販機はSuicaは使えるがPASMOは使えないのかもしれない。しかし、交通系ICカードと書いてあったのになぜだろうか。
午後に気まぐれでフェイスシールドをつけてみた。電話がしにくい。光が反射して少し視界が悪くなる。などの難点があったが、マスクよりは涼しかった。
帰りに五反野の銭湯(曙湯)に寄った。少し遠いが、今日の風呂はサウナもあり、露天風呂もあり、きれいで、お湯の温度もちょうどよく、見た目もTHE銭湯という感じでなかなかよかった。帰りにスーパーで半額の餃子、アルコールフリーのビール500ml缶1本、牛乳、飲むヨーグルト、10%オフのゴボウのサラダ、半額の刺身などを買って家で食べた、和菓子とビールを毎日食べていたがやめにしよう。というか、500mlは多い。350mlで十分だと思う。
Twitterによる自己分析―私はいったい何に興味があるのか―
COVID-19が流行ってからの自粛期間、何をしていたかと言えば、自己分析に時間を費やしていた。最初は外に走りに行くなどしていたわけだが、それも億劫になりもっぱら部屋の中でPCをいじるだけとなっていた。
具体的にはTwitterの過去の投稿をまとめ、主題別に分類するという作業をしていた。PC上で文章をうまくまとめるには、良いインターフェイスを持つソフトやアプリを知らないのでデータをExcelに移し、それを印刷し、カッターでつぶやきごとに裁断し、個別の短冊となったつぶやきをセロテープで貼り付けるというかなり幼稚園児の工作じみたことをしていた。セロテープでまとめたつぶやきはさらに見やすくするために一回り小さく切り、紙に貼り付け、つぶやきの先頭にこのつぶやきの一群が表していると思われる主題を振った。10年分のデータはそれなりの量があり、まとめるのに1か月ほど要した。
主な分類項目としては、以下のような6項目を用いた。比較的学術的な興味と思われる内容がつぶやかれている「疑問と論考」、これからの生活の中で実践してみたい着想をまとめた「暮らしの中でやってみたいこと」、自己分析色が最も強く、現在の私自身の課題や志向をまとめた「生き方の模索と理想像」、文芸創作などに役立てられそうな着想の元ネタやイメージを集めた「イメージの種」、見た夢をメモした「夢のメモ」、名言や自分以外の人がつぶやいていたお気に入り、RTで回ってきたもの、小説や本からの引用などをとりまとめた「引用・名言集」。さらにこれらの項目の中に中項目、必要があれば小項目を設け、主題別にとりまとめた。
Twitterのデータを紙に貼り付けることによって一通りまとめたわけだが、作業としては、まだ先がある。これらの内容はこのまま紙にしておくのではなく、これからのつぶやきとつなげていきたいので、電子化する必要がある。つぶやき自体は既に電子化されているのだが、主題毎のまとまりでつなげたものを電子化しているわけではない。そのため、現在行っている作業は紙にまとめたことを再検討し、PCで文章に書き起こすということを行っている。とりいそぎ、Excelに入力し主題別にシートを分けている。この入力したものをさらに精査し、より大きな塊へまとめることができるはずだが、その作業は文章を追加し、かつ考えることも多いので、切って紙に貼り付ける作業より時間を要するだろう。気長に取り組んでいくつもりだ。
これからもTwitterで何かしらをつぶやいていくわけなのだが、今後はこんな工作じみたことはやりたくないので、アプリを用いて管理していくことにした。具体的にはTwitterをIFTTTでTrelloと連携させ、つぶやきが自動的にTrelloに投稿されるようにした。加えて、お気に入りにしたものは自動的にOnenoteに保存されるようにした。Trelloはインターフェイスがかなり優れたアプリであり、ドラッグしてカードを取りまとめることができるという利点がある。その作業こそ私がつぶやきをまとめるときに欲しいなと思っていた機能だった。これからはつぶやきが一定以上まとまった段階で、Trello上で主題毎に編集していく予定だ。なお、Trelloでの編集がしやすいように、先ほどの6項目に対応した番号を付して、つぶやきを投稿するようにしている。Onenoteについては、つぶやきの自動投稿以外にも、ワンクリックでOnenote上にクリップできるchrome拡張機能を見つけたため、それを利用している。これらのことが、今後の作業が効率的になることを祈っている。
さて、私はなぜこのようなTwitterのつぶやきの分析をしたいるのかと言うと、大きく二点ほどある。
①自己分析をし、自分自身が何に興味があるのかを明らかにしたかった
②つぶやきを取りまとめたものをブログに文章として書き、文章力の向上につなげ、かつ、考えたことをWEB上にストックしておきたいと思った
①については、以前からぼんやりとはわかってはいるのだが、自分が興味を持つ事柄は自分自身の過去のつぶやきを見ればその頻度などでより明確に判別できると考えた。むろん、ぼんやりとした形であれ、自分の興味あることは当然自分のことなのだから誰でも自分でわかっていて、ふつうはその興味に基づいて先に本を読んだり、勉強をしたりするのだと思うが、いかんせん私はエンジンがかかるのが遅く、勉強の前に延々と机の掃除をしてしまうようなタイプだ。だからまず、整理できるものがあればそれを整理してから勉強に取り掛かりたいと思ってしまう。整理整頓よりも優先順位が低い興味ってそれは本当に興味のあることなのだろうか、という疑問はあるが、そうしないと体が動かないのだからしょうがない。とりあえず、この整理整頓は楽しい作業ではある。
②はその興味あることについて調べたこと、考えたことをまとめたものを文章にしてWEB上に出すことによって少しでも読んでくれるような人がいればモチベーションの向上につながると思った。
しかしながら、ただ興味あることについて、まとめたり、自分自身で調べたりしてもどうなるわけでもない。自己満足にすぎないのかもしれない。論文のようなものを書くにしてもそもそものアカデミックなプロの人々と比較すると、考えられることやそもそものアクセスできる資料などに大きな差があるので、そのような人々から見れば私が出す結果というのは幼児のお絵かきのようなものに等しいだろう。(いや、私は少なくともそうのようなものになるだけで、実際在野の研究者などは存在しているわけだし、全員が全員そうだというわけではないが)
では、我々は真理や発見について何事かを説得力をもって示すことはできないのか。そんなことはない。真理を提示する形には様々な方法がありうる。説得力を持った論文という形で示す以外にも、文芸的な世界における真理の表し方というものがある。むしろ多くの一般の人々にはこの方法しか残されていないのではないか(そして、志す人が異常に多い分野である)とさえ思える。文芸作品においては、論証を必要とせず、自分の見解についてイメージを伴って示唆することができ、それはかなり多様な形態がある。多様な形態があるため、また、多くの人が論証なく作品を作るためゴミに等しいものも多い。玉石混交の度合いが甚だしい分野だと言える。
このほかにも、文芸作品でなくても電子工作やプログラミング、集団での活動による業績、フィールドワークによる発見、動画の作成、社会活動等、やはり実際に自分で動いて何かをする、作るという方法が、一般の人々が真理(もしくは新しい何かの視点)をもたらしうることができる堅実な方法なのではないだろうか。わかりにくくなったが、理論の構築よりも理論の実践を突き付ける、という方法が我々には手が届きやすいということが言いたかった。
私はできるかぎり、論理的な文章で自分の考えたことをまとめてみたいという気持ちが強い。そのため、このような自己満足的な形であれそれを続けていくつもりだ。その一方で、私自身は文芸作品にも興味あるので、その方面でも自分で考えたこと、興味のあること、面白いなと思ったことを作品という一つの世界として形作っていければいいなと思う。
2020.04.10
快晴。ここのところ天気が良い。まあ昨日は雨だったが。洗濯物が良く乾くので良い。もう春を通り越して初夏くらいの気候だ。桜は散ってしまった。
会社が実質週休4日制になった。感染症対策のため、2チームに分かれて出勤することとなり、私は火木土の出勤となった。7日に緊急事態宣言というものが出され、自粛要請が出ているので、原則食料品買い出しや理髪以外は外出しないようにしなければならないようだ。企業や店についても、休業を要請するそうだ。ただ一方で、それに関連して収入が無くなる者への生活補償を国は行わないという。政府の対応を調べても貸与がほとんどで、一律の国民への給付というのはごくわずかだ。あったとしても、自己申告制でかなり条件が狭まった範囲の者しか対象にならない。政府は国民のことをどうでもよいと思っていることはたしからしい。首相から「(策が失敗しても)責任は取らない」という趣旨のことを平然と言ってのけている。すべて国民の自己責任にしておきたいようだ。
人々はどこまで従順な羊なのだろうか。闘わなければならないと思う。このようなときに必ず、羊のうちには「そんなに感情的になるな、熱くなるな、闘ってどうする」というような意見が見られる。その羊たちは自分たちが余裕のある大人だと思っているのかもしれないが、何もせずただ上に従うだけの馬鹿と変わらない。最も軽蔑すべき種類の者たちだ。闘うことで自分たちの言い分を通さねばならないという局面があり、それは今なのだと思う。
そんな中、私はできる限り走ることにした。土手の人があまりいないところを走るだけなので大丈夫だろう。昨日少々食べ過ぎてしまったチョコチップクッキーの分を消費しなければならない。そのあと、酒を飲むつもりだ。家にいることが増えると酒量が増えて困る。昼間から飲む酒はうまいからしょうがない。職場から電話がこないとも限らないが、まあ来てもなんとかなるだろう。
これから走り、昼食を食べ、夕方にはインターネットで知り合った女性と会う予定となっている。
個人で行う生活史調査 他人への配慮
前に生活史調査として人の話を聞いていこうみたいなことを書いたのだが、
kapuragikapuriko.hatenablog.com
よく考えれば、これは他人のプライバシーにずけずけ入り込むことと紙一重だ。他人に今までの生きざまを聞き、思想を聞き、家庭のことを聞くことになるかもしれない。(そのようなことを聞き出せることを目指したいのだけれど)
しかし、思想、年齢、職業、家庭のこと、宗教、政治など、それらはあまり親しくない人との会話では聞くべきではない話題とされている。他者の生活史には興味があるが、他者は尊重しなければならない。だから、この個人で行っていく調査というのは、時間がかかることになるのかもしれない。私は学者でもなんでもないし、大義名分として人様に「あなたの今までの人生を語って聞かせてくれ、それを文章にしたいから」と言える立場にはない。作家にくらいならなれるかもしれないが。そのため、相手から自発的に語りだすことを待たなければならないのかもしれない。私に話術というか、語りだすような雰囲気作りがうまければいいのだが…。あいにくそういうことが得意な方ではない。よく考えて、相手のこと気持ちを察しながら人と会話していこう。尊重する気持ちを忘れないこと。人は私のためだけに存在しているわけではないのだから。