Q1-1.なぜ人との会話は楽しいのか?

 

 なぜ他人がいると楽しいのか。それは寂しくないから。きっと予測不可能なことがたくさんあるからだし、一人ではできないことができるから。そういった、いろんな理由はあるだろうけれど、他人がいたらどうにも必要になってくることといえば、会話だ。人が複数いれば会話が生まれる。そして、それは他人といると楽しいという気持ちにつながる大きな要素だ。むしろ、それが他人がいることの重要性として、一番土台にあると言ってもいいだろう。

 

 人と話したい気持ち*1、というのはけっこう無自覚に強く、一人のときにはそうでもなかったけれど、他人と話していて言いようのない楽しさを感じることがある。感情が発生したら、それを共有したいし、そうでなくてもたまには誰かと意思の疎通を図る行為をしたいという志向性がどうやら私たちには組み込まれている。(反対に、どうにもコミュニケーションを取りたくなく、一人になりたいというときもある)。

 

 しかし、なぜ会話やおしゃべりは楽しいのだろうか。その理由を考えてみよう。以下に思いついたものを述べる。

 

①自分以外の考えがわかる

 つまり、新しい発見がある、他人の思っていることはふだんはわからないけれども、言語という道具を使うことによってはじめてその中身が少しだけ垣間見える。それが楽しい。

 

②偶発性と即興性

 偶然の要素が他人がいることで多分に含まれてくる。つまり、相手のことは予期できないことがある。その中で即興的に理解して自分からまた言葉を繰り出す。これは一種のスポーツのような楽しさなのかもしれない。

 

③発信そのものが楽しい

 自分の中で思っていること、考えていること、率直な気持ち、それを表に出すこと自体が楽しいのかもしれない*2。自己の表現であっりそれは楽しい。自分の発言によって人を楽しませることができたらなお楽しいだろう。会話でなくても、自分のうまくやった結果で、人を喜ばせることは楽しい。これは、②のスポーツの目的としても関連してくるだろう。

 

④つながっている感じが楽しい

 一体感、それは人間に共通する快楽の大きなものだと思うが、会話を通して相手との考えを共有し、一体感を得ることができる。そのため、楽しくなるのではないか。

 

 

 もちろん、会話の中には楽しい会話と楽しくない会話というのがある。その中で、一緒にいて楽しいとか、楽しい会話とはいったいなぜ、どのように成り立つのだろうか。そのように考えたとき、会話におけるボケとツッコミという役割のうち特にツッコミは非常に重要なものではないだろうか。ボケとツッコミというのは、会話をデザインする一つの手法だ。日常を劇的にというか、戯画的にというか、メリハリをつける数ある装置の一つだと言える。独りよがりなツッコミとか非難したいがためのツッコミというのもあるのだろうが、基本的にはツッコミは、相手のことをちゃんと聞いたうえでなされる相槌の一つである。その相槌の表現は、ツッコみ者の判断基準によって選ばれ、正しいこととおかしなことの境目をその相槌によって瞬間的に見えるようにする。そして、そのツッコミで提示された判断基準と、ボケ(とされた)発言のずれを見て楽しみというものだ(と私は理解している)。※ここで、例を提示したいが、考えるのがめんどうくさい。

 

 とはいえ、ここでのこのボケ-ツッコミ装置というのは形式であり、中身によって楽しさ、面白さを感じさせるものではないのかもしれない。ボケ-ツッコミ形式だけでもどうしようもなくつまらないものはこの世に腐るほど存在する。つまり、形式的な面白さもあれば、形式的でない面白さ(楽しさ)もあるのではないかということに気付かされる。それは、会話している内容、扱っている対象の面白さだ。たとえば、無味乾燥な仕事の倉庫整理の段取りの話を延々とするよりかは、この前見た面白い映画の感想をみんなで共有する方が面白い。この違いはいったいなんのか。むろん、倉庫整理の話が途方もなく面白く感じる稀有な人間もいるのだろうが、通常の人間は映画の話の方が好きだろう。

 

 そもそも会話とか関係なく、面白いとか楽しさというポジティブな感情はなんなのか、ということも考えてみなければこの会話はなぜ楽しいかという問題は埒が明かないような気がする。そもそも人それぞれ面白いと思うことが違うので、無意味な問いか? 面白いことの普遍性を追求するのは間違っているか? そうは思わないが…。*3

 

 この他に会話が楽しい要素を上げれば、話している相手が楽しい相手だから、馬が合うから、話が合うから、ということが考えられる。

 「話しが合う」「馬が合う」*4とはいったいなんなのか。性格や考え方が似ているということだろうか。そうすると、なぜ性格が似ていると楽しいのか。共感するからだろうか。そうすると、なぜ共感は楽しいのか、ということになるのだが、よくわからないが、一体感を得られることはみんな楽しくて気持ちが良いという私の理論でいえば、そこで共感が得られることは一体感を得られることに等しく、それが理由で打ち止めとなる。

 

 とにかく、人は会話をすることは楽しく、その会話の楽しさはいろんな要素があるとうことだ。人はどうしようもなく話し合わないと生きていけない。人と人は、わかろうとしなければならない。*5沈黙は金なりとかいうが、喋らない人は喋る人に比べて圧倒的に損をする。なぜなら考えていることが相手に伝わらないからだ。全て会話は楽しさを通じて一体感、連帯感、他者への通路を通じてその者とつながることを目的としている…。

 

 ただ、沈黙でのコミュニケーションの可能性、沈黙による会話の可能性がないわけではない。コミュニケーションでの沈黙が増えれば終わりなのかというとそういうわけでもないのだ。沈黙が、会話のない時間が、まったくコミュニケーションの断絶を意味しない地平が存在する。そして、そこへの到達を好ましく思って目指す者もいる。たとえば、よく、マッチングアプリの自己紹介などで「話さなくても落ち着く人がいい」みたいなことが書いてある、しかし、そこに至るためには会話をしてそれぞれの人となりを理解する過程が必要だ。それを飛ばして見知らぬ他人同士がそこに行けるはずがない(前世で出会っていたなら別だが)。始めにコミュニケーションありきだ。その過程で馬が合う/合わないも変容していくのかもしれない。

 

 

*1:ところで、人と話をしたいとき、それも自分のことを誰かに語りたいときはいったい自分はどういう状態にある時なのかよく考えてみよう。もしかしたら、そうすれば、話したい気持ちの真意がわかるのかもしれない。それは、寂しいとき、悲しいとき、嬉しいとき、何かを思いついたとき…? それはつまり、寂しさを紛らわせるため、悲しさをいやすため、嬉しいことを共有するため(自慢するため?)…など。こういうこととは別に、何でもないけど誰かと話がしたいということがあるのだろうか。それが寂しいときなのだろうか。「人と何を話したいか」と「人に何を話さねばならないか」は異なるが、これらとは別に「話すこと自体が目的」というものがある。しかし、話すこと自体が目的となるときとはいったいどんなときなのだろうか。それも寂しいときなのか。

*2: ふと思うのだが、自分の経験の切り売りでない会話、というのは可能なのだろうか。無理か。あるとすればどんなものか。

*3:会話での、面白いとか面白くないとかはランダム性、知識量、発想、テンポが要素をなしていてそれが決定しているように思うが、これに加えて参加主体の興味の対象かどうかということが大きいと思う。もしかしたら、「面白い」という語を用いているがかなり多義的であって、それぞれの用法で別のことを指示している可能性もある。また、面白さ(楽しさ)には、面白く感じることと、正しいかということや身がある内容なのかということは異なることも事実だ。間違っていても面白いこと、全然ためにならない無意味な内容でも楽しいことというのは山ほどある。そうすると、やはり形式的なときの面白さと中身を扱うときの面白さは面白さの意味が違うのではないか。

*4:会話において、馬が合うかどうかの確認の作業というものがたびたび発生することがある。たとえば、人に好きなものを薦める行為は、自分の感性と相手の感性とが一致するかの確認、もしくは一致させることを目的としているといえる。

*5:ちなみに、言語的なコミュニケーションの能力が低い者は身体のコミュニケーションの能力も低い。言語的なコミュニケーションに習熟していないものが、異性との性的接触をうまく行えるはずがない。そういう言語での他者理解というものは身体での他者理解と地続きになっている、と思う。