Q1. 人間が楽しいと感じることの条件や要素は何か?

 

 人生の意味は誰もが直面する哲学的問題だ。「あなたにとって人生の意味はなんですか?」という問いに対する、素朴な一つの回答として、「楽しいことをすること」という回答は世間の多くの人々にとってすぐに思いつくものではないだろうか。せっかく生を得ているのだから、人生を楽しまなけれれば意味がない、楽しくなければ生きている意味がない、というように。

 

 では、私たちは人生の中で何について、最も楽しい、気持ちが良いと思うのだろうか。毎日の中で、何か楽しみがあると楽しく過ごすことができるのは間違いがない。日常の中で、楽しみがあるのとないのとでは大違いだ。ここに私の興味がある。つまり、人はなぜ生きるのか、何を楽しみにして、何を目標にして生きるのか、ひいては、希望とは何か、という問いについてだ。何が精神的に人を生かすのか、人を生き生きとさせるものは何かと言ってもいい。日常の中で、小さな楽しみ=希望があるだけで、人間は生きていける。

 

 もちろん、この問いの状態では非常に大雑把であるため、様々なこととごちゃ混ぜになり、問いに対する答えや道筋を示すことが難しいかもしれない。そもそもこの問いは哲学的な問い、というよりは、感情の原因を探るような問いであるので、心理学や認知科学、文化的な側面により注目するのであれば社会学的な観点から探求できるだろう。

 

 しかし、どのような分野のどのような問いの形にすれば考えやすいのか私には今の段階ではわからないので、さしあたっては、「人生の中で、人間が楽しいと感じること、生きがいと思うことは何か、その条件や傾向性はどのようなものか」という形でだけ問うておくことにしたい。

 

 人によって楽しいと感じることは千差万別であるため、この問いに対しては、様々な回答がありうる。街行く人に「お前の楽しみは何か」と訊いて回れば、各人多様な答えを返してくることだろう*1その中にはきっと、「食べること」「セックス」「寝ること」といった三大欲求に基づいたものもあれば、その欲求のうえに存在する、「人に認められること」(承認欲求)、「自分の目標を達成すること」(自己実現)、「面白いものを調べたり考えたりすること」(好奇心?)などの社会的な欲求もありうる。

 

 私は、その欲求の中で、社会的な欲求が人間にとって楽しみをもたらす大きな役割を持っているのではないか、と思うようになってきた。むろん、三大欲求のもたらす快楽というのは底知れない。フロイトは性欲を人間の根底に置いたほどなので、人は性について相当強い志向性を持ち、追い求めることは確かだ。*2しかし、そのような生理的な欲求を除いても、人間にとってはどうしようもなく楽しいことが残されている。私がそう感じたその中の一部を以下に記してみよう。

 

  • 好奇心/新しいことを知ること

 好奇心、すなわち、「続きが気になる」という最強のうれしい呪い。私が楽しいとか面白いと感じる感情の中では、「その先が知りたい」という言葉で表すことができる感情が最も強力であるように思う。*3そして、学術や文化的なものとの結びつきがかなり強い。物語の先が知りたい。この構造が知りたい。動物の種類が知りたい。など。*4

 

 もはや、どの項目がどれに包摂されるのか、どのようにつながるのか、はたまた、違いは実はなくて同じものなのか、ということが曖昧になっているのだが、以下の事も上のことと関係しつつ楽しさを形成している。

 

  • 自分で主体的に決めて、自分でものを作り上げること

 自分でルールを決め、その範囲内でどのくらいうまくできるか試みることは楽しい。先を読んで、自分の思い通りになったら、楽しいだろう。計画とその実行により、結果がもたらされることが楽しさにつながっている。

 このルール(計画)を作って実行していくことは、勉強にたとえると、予習の楽しさとでもいおうか、知ることのの楽しさにつながることができる。つまり、上に挙げた好奇心と表裏一体となっている。復習は能動性を損ねるが、予習は能動性と相性がいい。自ら世界を学ぶことによって、日常の世界のすべてを復習にすることができる。自分の疑問を持ち、本気で何事かを考えると、世界が答え合わせになりうる。そして、それは楽しく面白い。

 

  • 何かを始めること、何かが始まることを目の当たりとすること

 何かを始めるということ、始まりがどうしようもなく楽しい。*5

 変化の兆し。見慣れた日常のひび割れ。慣れはかなり特殊な能力で、慣れると良いこともあるのだが、慣れてしまうことで、退屈という怪物を人心に招き入れてしまう。そうしたら、何か新たな要素を自分に取り入れなければいてもたってもいられなくなる。そう、やはり、この何かを始めること、というのも。どうしようもなく、自分で計画して何かを行うことや新しいことを知ることに結び付いている。しかし、私はこれらをどのようにうまくカテゴリに分けたらいいのか(また、それとももっと根本的な共通要素を抽出したらいいのか)今のところは見当がつかない。

 

  • 自分が何かに貢献すること、役に立つこと、役割を発揮すること

 自他ともに認めている自分しかできないことをやり、それを成し遂げるということには楽しさがある。これは単に承認欲求だ、ということで片付けられるのかもしれないが。

 

  • 熟練の知識や技術を使って物事をなすこと

 何かしらについて熟練した知識を持っていることはかっこいいことだ。そして、その知識を持っている者にはその知識を使っての特定分野においてのある楽しみがある。その知識を道具としてうまく使いこなせることの楽しみというものが。先ほど書いた慣れのもたらす良い側面とはこのことだ。慣れることは熟達をもたらす。そして、このことは自分の目標追求という点で(自分のルールに従った創造という点で)新たな楽しさに接続しうる。老人たちがリタイア後に今まで関わってきた仕事の知識を生かして子供たちに教える、武道の達人が100の道場やぶりを成し遂げようとする、朝起きてから駅に着きまでの最速タイムを更新しようとする、など。老人の例は役割の楽しさにもつながっているだろう。

  

  •  好きな物を集めること

 入れようか迷ったが、これも明らかに楽しい。自分のいいなと思った画像を集めていつでも眺められるってことはなんて幸せなことなんだろう。*6たとえば、アイドルの写真集とかはその目的で作られているだろう。画像に限らず、文章でも、音楽でも、物でもコンセプトでもなんでもだ。しかし、なんで人間はいろんなものを集めるのか。それは集めるのが楽しいからだ。集めることによって自分の世界を形作っているのだ。そう考えると、この楽しさも主体的にルールを決めて実行する、ということに含まれるのかもしれない。

 

  • コミュニケーションを取ること

 これについては会話の楽しさ、ということに注目したい。ただし、話が長くなりすぎるので、この記事とは別にまとめたいと思う。

 

  • 身体を動かすこと

 身体を動かすだけで楽しい。だから人はスポーツをするのだが、スポーツはこれにルールが加わるし、技術の行使も加わる。チーム戦であれば、役割の楽しさも加わるだろう。

 

 以上、思っていたことを取りとめもなくまとめてみたが、ここで微力ながら、これらの共通要素を無理やり導き出してみたい。おそらく、人間はきっと、動きのある事(止まっていないこと、流れていること)が好きなのではないか。そして、動いていること通じて自分の世界を形作ったり、拡張したり、充実させることが好きなのではないか。それが楽しいことの共通点なのではないか。

 

 原子論的な考えにはなるが、楽しいと感じられることの要素を特定すれば、あらゆる楽しいことがその複合的なものとして説明ができるのではないか、という気持ちがある。ここで挙げた以外にも人間が楽しいと感じることができる原子(原子楽?)が多くあるだろう。社会の中で面白い、楽しいとされていることは、これらの楽しいことが組み合わさっていることはまず疑いがない。

 

 たとえば、それは、仕事をこなす楽しさであったり、ゲームをする楽しさなのだと思う。仕事をしているとき忙しく立ち回る一日があるがその中にも感じる楽しさ、というものがある。もちろん、疲れるし、この忙しい状態がずっと続けば心を病んだり身体を壊すだろう。しかし、この没頭している感覚にある種の心地よさを感じる。特に、知識や技術が自分のものとなった、手慣れた仕事をこなしているときには、何か完成されていることを行なっている感覚がある。自分のやり方を通じて、自分の世界を形作ることに心地よさを感じているのではないか。ゲームも同様だ。

  

とりあえず、以上、まとめてみた。

*1:もしかすると、計量的に答えを探すのもいいのかもしれない。たとえば、社会調査を行い、多くの人間たちに「あなたが人生の中での生きがいは何ですか?」などの項目を設けたアンケートを実施して、その傾向を把握するなどだ。

*2:この論点から言えば、睡眠欲をすべての行動の根底に置いた精神分析の体系や、食欲を根底に置いた体系が考えられるたりするのだろうか?

 ところで、性欲と食欲睡眠欲はしばしば混然一体となって認識されることが人間にはあるように思う。言語表現にその傾向が表れているのではないか。「食べちゃいたいほどかわいい」。性欲と食欲の結びつきはかなり強そうだ。性的なことは口を使うし…。また、睡眠欲と性欲のつながりで言えば、性的な営みは寝床で行われるし、「寝る」ことは性的行為を意味する…食欲と睡眠欲のつながりは薄そうだ。食べたら、眠くなる、くらいの連想しか思いつかない。これら三つの欲求は性欲を媒介として一体となる、ような気がする

*3:もしかしたら、自分が何かに強く惹き付けられてそのことしか考えられなくなっている状態は、ほとんどの場合楽しかったり、面白かったりすることと同じなのかも知れない。

*4:ちなみに、世界が広がるとは新しい検索語を見つけることだ、という文言が『弱いつながり 検索ワードを探す旅』(東浩紀幻冬舎文庫)という本の中で出てくるようだ。読んだことはないが、人生の楽しいものを探す行為と検索ということの結びつきは切り離せないものになっているような気もしないでもない。だって、新しく調べたいことをネットで検索しているときってかなり楽しいので。

*5:ちなみに、終わりは新たな始まりを予感させるものだから逆に良いように見えるのではないか。あとは、「作り上げる」「完成させる」「区切りをつける」ということ意味するため、人間社会において、終わるということが良いとされる場合はそのような観点でとらえているのではないか

*6:人には好みというものがある。単に物を集めると言っても、集める物が人で全くことなる。なぜこのような、違いが出てくるのだろうか。そもそもなぜ好みがあるのか、好みはいかに形作られるのか、ということは興味深い主題だ。脳内の神経細胞の接続の違い、環境の違い、遺伝子の違い、外界に接する身体というインターフェイスの違い、諸々の影響によって形成されて性格によってさらに得られた経験の違い…などなどによって説明されるのだろうか。

2020.06.22

 強めの雨。一日雨だった。明日も雨らしい。

 今日は危なかった。昨日は五反田の蕎麦屋で飲み食いしたのだが、そのあとに地元の駅前の居酒屋で遅くまで飲んでいたせいで朝寝過ごすところだった。酔った勢いで友人にLINEを送っていて、そのとき、モーニングコールしてほしいと言っていたのが功を奏して、会社に遅刻せずに済んだ。九死に一生を得た。私の会社ははちゃめちゃにゆるいところがあり、これまで遅刻しても許されていたのだが、もはや完全に目を付けられるようになってしまったため、二度と遅刻はできないような状態だ。本当に助かった。今後は翌日が休みの日以外は飲まないことにしよう。それにしても、6時半に起こしてほしいと伝えて、ちゃんと6時半に電話してきて、それに私も返答をし、二度寝したのだが、そのときの返答を信じず、8時にまた電話をしてきたところがすごい。友人、私の特性をよくわかっている。あと10時出社でなかったらアウトだった。

 

 ところで、昨日の飲み会では、女子が年上の男性に好意を抱いている様子、というのがはっきりわかる状況を目の当たりとしたのだが、羨ましい限りだった。もてる、というのはいったいなんなのだろうか。フェロモンなのかと思わされるような一場面だった。きっと背筋が伸びている、顔の作りではなくむしろ頭の小ささとか、姿勢の良さ、身体全体のバランスが良い、ということが大きく関係するように思う。その女子は結局泊まるところがなかったので、その男性の家に泊まったと思われるのだが、その夜はもう完全にあれだろう。

 

 出社してからは、通常通り事務作業を行い、昼飯はサラダ巻きだけ食べた。酔っぱらっていたような感じが続いていて、完全に二日酔いだったが、コーヒーがなんともおいしく感じた。そういえば、会社の自販機はSuicaは使えるがPASMOは使えないのかもしれない。しかし、交通系ICカードと書いてあったのになぜだろうか。

 

 午後に気まぐれでフェイスシールドをつけてみた。電話がしにくい。光が反射して少し視界が悪くなる。などの難点があったが、マスクよりは涼しかった。

 

 帰りに五反野の銭湯(曙湯)に寄った。少し遠いが、今日の風呂はサウナもあり、露天風呂もあり、きれいで、お湯の温度もちょうどよく、見た目もTHE銭湯という感じでなかなかよかった。帰りにスーパーで半額の餃子、アルコールフリーのビール500ml缶1本、牛乳、飲むヨーグルト、10%オフのゴボウのサラダ、半額の刺身などを買って家で食べた、和菓子とビールを毎日食べていたがやめにしよう。というか、500mlは多い。350mlで十分だと思う。

 

 

Twitterによる自己分析―私はいったい何に興味があるのか―

 

 COVID-19が流行ってからの自粛期間、何をしていたかと言えば、自己分析に時間を費やしていた。最初は外に走りに行くなどしていたわけだが、それも億劫になりもっぱら部屋の中でPCをいじるだけとなっていた。

 

 具体的にはTwitterの過去の投稿をまとめ、主題別に分類するという作業をしていた。PC上で文章をうまくまとめるには、良いインターフェイスを持つソフトやアプリを知らないのでデータをExcelに移し、それを印刷し、カッターでつぶやきごとに裁断し、個別の短冊となったつぶやきをセロテープで貼り付けるというかなり幼稚園児の工作じみたことをしていた。セロテープでまとめたつぶやきはさらに見やすくするために一回り小さく切り、紙に貼り付け、つぶやきの先頭にこのつぶやきの一群が表していると思われる主題を振った。10年分のデータはそれなりの量があり、まとめるのに1か月ほど要した。

 

 主な分類項目としては、以下のような6項目を用いた。比較的学術的な興味と思われる内容がつぶやかれている「疑問と論考」、これからの生活の中で実践してみたい着想をまとめた「暮らしの中でやってみたいこと」、自己分析色が最も強く、現在の私自身の課題や志向をまとめた「生き方の模索と理想像」、文芸創作などに役立てられそうな着想の元ネタやイメージを集めた「イメージの種」、見た夢をメモした「夢のメモ」、名言や自分以外の人がつぶやいていたお気に入り、RTで回ってきたもの、小説や本からの引用などをとりまとめた「引用・名言集」。さらにこれらの項目の中に中項目、必要があれば小項目を設け、主題別にとりまとめた。

 

 Twitterのデータを紙に貼り付けることによって一通りまとめたわけだが、作業としては、まだ先がある。これらの内容はこのまま紙にしておくのではなく、これからのつぶやきとつなげていきたいので、電子化する必要がある。つぶやき自体は既に電子化されているのだが、主題毎のまとまりでつなげたものを電子化しているわけではない。そのため、現在行っている作業は紙にまとめたことを再検討し、PCで文章に書き起こすということを行っている。とりいそぎ、Excelに入力し主題別にシートを分けている。この入力したものをさらに精査し、より大きな塊へまとめることができるはずだが、その作業は文章を追加し、かつ考えることも多いので、切って紙に貼り付ける作業より時間を要するだろう。気長に取り組んでいくつもりだ。

 

 これからもTwitterで何かしらをつぶやいていくわけなのだが、今後はこんな工作じみたことはやりたくないので、アプリを用いて管理していくことにした。具体的にはTwitterをIFTTTでTrelloと連携させ、つぶやきが自動的にTrelloに投稿されるようにした。加えて、お気に入りにしたものは自動的にOnenoteに保存されるようにした。Trelloはインターフェイスがかなり優れたアプリであり、ドラッグしてカードを取りまとめることができるという利点がある。その作業こそ私がつぶやきをまとめるときに欲しいなと思っていた機能だった。これからはつぶやきが一定以上まとまった段階で、Trello上で主題毎に編集していく予定だ。なお、Trelloでの編集がしやすいように、先ほどの6項目に対応した番号を付して、つぶやきを投稿するようにしている。Onenoteについては、つぶやきの自動投稿以外にも、ワンクリックでOnenote上にクリップできるchrome拡張機能を見つけたため、それを利用している。これらのことが、今後の作業が効率的になることを祈っている。

 

 さて、私はなぜこのようなTwitterのつぶやきの分析をしたいるのかと言うと、大きく二点ほどある。

 ①自己分析をし、自分自身が何に興味があるのかを明らかにしたかった 

 ②つぶやきを取りまとめたものをブログに文章として書き、文章力の向上につなげ、かつ、考えたことをWEB上にストックしておきたいと思った 

 

 ①については、以前からぼんやりとはわかってはいるのだが、自分が興味を持つ事柄は自分自身の過去のつぶやきを見ればその頻度などでより明確に判別できると考えた。むろん、ぼんやりとした形であれ、自分の興味あることは当然自分のことなのだから誰でも自分でわかっていて、ふつうはその興味に基づいて先に本を読んだり、勉強をしたりするのだと思うが、いかんせん私はエンジンがかかるのが遅く、勉強の前に延々と机の掃除をしてしまうようなタイプだ。だからまず、整理できるものがあればそれを整理してから勉強に取り掛かりたいと思ってしまう。整理整頓よりも優先順位が低い興味ってそれは本当に興味のあることなのだろうか、という疑問はあるが、そうしないと体が動かないのだからしょうがない。とりあえず、この整理整頓は楽しい作業ではある。 

 

 ②はその興味あることについて調べたこと、考えたことをまとめたものを文章にしてWEB上に出すことによって少しでも読んでくれるような人がいればモチベーションの向上につながると思った。

 

 しかしながら、ただ興味あることについて、まとめたり、自分自身で調べたりしてもどうなるわけでもない。自己満足にすぎないのかもしれない。論文のようなものを書くにしてもそもそものアカデミックなプロの人々と比較すると、考えられることやそもそものアクセスできる資料などに大きな差があるので、そのような人々から見れば私が出す結果というのは幼児のお絵かきのようなものに等しいだろう。(いや、私は少なくともそうのようなものになるだけで、実際在野の研究者などは存在しているわけだし、全員が全員そうだというわけではないが)

 

 では、我々は真理や発見について何事かを説得力をもって示すことはできないのか。そんなことはない。真理を提示する形には様々な方法がありうる。説得力を持った論文という形で示す以外にも、文芸的な世界における真理の表し方というものがある。むしろ多くの一般の人々にはこの方法しか残されていないのではないか(そして、志す人が異常に多い分野である)とさえ思える。文芸作品においては、論証を必要とせず、自分の見解についてイメージを伴って示唆することができ、それはかなり多様な形態がある。多様な形態があるため、また、多くの人が論証なく作品を作るためゴミに等しいものも多い。玉石混交の度合いが甚だしい分野だと言える。

 このほかにも、文芸作品でなくても電子工作やプログラミング、集団での活動による業績、フィールドワークによる発見、動画の作成、社会活動等、やはり実際に自分で動いて何かをする、作るという方法が、一般の人々が真理(もしくは新しい何かの視点)をもたらしうることができる堅実な方法なのではないだろうか。わかりにくくなったが、理論の構築よりも理論の実践を突き付ける、という方法が我々には手が届きやすいということが言いたかった。

 

 私はできるかぎり、論理的な文章で自分の考えたことをまとめてみたいという気持ちが強い。そのため、このような自己満足的な形であれそれを続けていくつもりだ。その一方で、私自身は文芸作品にも興味あるので、その方面でも自分で考えたこと、興味のあること、面白いなと思ったことを作品という一つの世界として形作っていければいいなと思う。

2020.04.10

 

 快晴。ここのところ天気が良い。まあ昨日は雨だったが。洗濯物が良く乾くので良い。もう春を通り越して初夏くらいの気候だ。桜は散ってしまった。

 

 会社が実質週休4日制になった。感染症対策のため、2チームに分かれて出勤することとなり、私は火木土の出勤となった。7日に緊急事態宣言というものが出され、自粛要請が出ているので、原則食料品買い出しや理髪以外は外出しないようにしなければならないようだ。企業や店についても、休業を要請するそうだ。ただ一方で、それに関連して収入が無くなる者への生活補償を国は行わないという。政府の対応を調べても貸与がほとんどで、一律の国民への給付というのはごくわずかだ。あったとしても、自己申告制でかなり条件が狭まった範囲の者しか対象にならない。政府は国民のことをどうでもよいと思っていることはたしからしい。首相から「(策が失敗しても)責任は取らない」という趣旨のことを平然と言ってのけている。すべて国民の自己責任にしておきたいようだ。

 人々はどこまで従順な羊なのだろうか。闘わなければならないと思う。このようなときに必ず、羊のうちには「そんなに感情的になるな、熱くなるな、闘ってどうする」というような意見が見られる。その羊たちは自分たちが余裕のある大人だと思っているのかもしれないが、何もせずただ上に従うだけの馬鹿と変わらない。最も軽蔑すべき種類の者たちだ。闘うことで自分たちの言い分を通さねばならないという局面があり、それは今なのだと思う。

 

 そんな中、私はできる限り走ることにした。土手の人があまりいないところを走るだけなので大丈夫だろう。昨日少々食べ過ぎてしまったチョコチップクッキーの分を消費しなければならない。そのあと、酒を飲むつもりだ。家にいることが増えると酒量が増えて困る。昼間から飲む酒はうまいからしょうがない。職場から電話がこないとも限らないが、まあ来てもなんとかなるだろう。

 

 これから走り、昼食を食べ、夕方にはインターネットで知り合った女性と会う予定となっている。

 

個人で行う生活史調査 他人への配慮

 前に生活史調査として人の話を聞いていこうみたいなことを書いたのだが、

 

kapuragikapuriko.hatenablog.com

 

 よく考えれば、これは他人のプライバシーにずけずけ入り込むことと紙一重だ。他人に今までの生きざまを聞き、思想を聞き、家庭のことを聞くことになるかもしれない。(そのようなことを聞き出せることを目指したいのだけれど)

 

 しかし、思想、年齢、職業、家庭のこと、宗教、政治など、それらはあまり親しくない人との会話では聞くべきではない話題とされている。他者の生活史には興味があるが、他者は尊重しなければならない。だから、この個人で行っていく調査というのは、時間がかかることになるのかもしれない。私は学者でもなんでもないし、大義名分として人様に「あなたの今までの人生を語って聞かせてくれ、それを文章にしたいから」と言える立場にはない。作家にくらいならなれるかもしれないが。そのため、相手から自発的に語りだすことを待たなければならないのかもしれない。私に話術というか、語りだすような雰囲気作りがうまければいいのだが…。あいにくそういうことが得意な方ではない。よく考えて、相手のこと気持ちを察しながら人と会話していこう。尊重する気持ちを忘れないこと。人は私のためだけに存在しているわけではないのだから。

大道芸に対する拍手は強制なのか

 以前、千葉方面の海に面した公園に出かけたことがあった。その公園には水族館が隣接しており、その建物前には広場がある。その広場には大道芸人がいた。幾人か通行人がその周りに立ち止まり、芸を見ていた、私たちもその中にいた。

 

 若い男の芸人は何度も繰り返しこう言った。「皆さん、お金を入れるかどうかは自由です! ただ、拍手は見ている人は強制です! 必ず拍手をしてください!」

 

 その大道芸人が行う芸は、一輪車に乗ってお手玉をしたり、ヨーヨーをするというものだった。率直な感想を言わせてもらえばそれほどすごくはない。私は芸人のその「拍手は強制だ」という言葉に猛烈な違和感を覚えた。いけすかない。

 

 拍手をするかどうかは観客の自由だ。拍手は観客が面白いと思ったもの、つまり、拍手に値すると思ったものに対してするものだ。それを選ぶ権利は観客にある。それを強制されるいわれはないのではないか。

 

 もちろん、拍手をすることによって、場が楽しい感じになるかもしれない。「悲しいから泣くのではない、泣くから悲しいのだ」というように、拍手をすれば逆に楽しい気持ちにもなるのかもしれない。芸をしている方だって嬉しくて芸に身が入りやすいかもしれない。

 

 しかし、なぜわざわざ面白くないと思っているものにたいして私は拍手をしなければならないのか。なぜわざわざ楽しいような雰囲気を醸し出す手助けをしなければならないのか。癪に障るのでやりたくない。私は私の基準で拍手をする。何に対して拍手をするかどうか選ぶのは私だ。それを強制されるくらいなら、大道芸など見たくない。

 

 路上に出て、芸をすることは勝手である。しかし、それはお前の勝手でやっていることであり、公的空間にいる人々はお前のために存在しているわけではない。自分たちにとって都合の良いような行為を強制する権利がお前にあるのか。あるとすれば、なぜあるのか、理由を教えてほしい。お前たちが勝手に私の通ろうとする道を遮って芸をしているだけなのに。拍手をもらえなかった。誰も見てくれなかった。それはお前の芸が拙いからであり、観客が場を盛り上げてくれなかったからではない。公的な場で勝手に芸を行うのであれは、そのような処遇を受けることも覚悟してやらなければならない。何度も言うが、人はお前のためだけに存在しているわけではない。

 

 「海外ではやってくれるじゃないか、日本はそのような文化がないからだめだ。見習うべきだ」。そのような意見も出てくることだろう。よそはよそ、うちはうちである。なぜ海外の基準でわざわざ観客が合わせなければいけないのか。メリットがお前たち以外にあるのか。出ていけとまではいかないが、そういうことであればお前は日本ではやっていけませんね、ということでしかない。

 

 ここまで辛辣に書き立てたが、私はそもそも場を盛り上げたくなる気質の人間だ。何かパフォーマンスをしていればひときわ大きな拍手をするし、場合によっては指笛まで使って盛り上げようと努力する。その方が楽しいからだ。

 

 では、なぜ私はこれほどまでにその芸人の言葉にいらだちを覚え、反発しているのか。それは、その芸人が言葉に出したからだ。拍手は強制だ、と。言葉に出すことによって死ぬものと生きてくるものがある。私にとって、盛り上げたいという気持ちはその言葉によって死んだ。人から強制されることが嫌いだからだ。好きな人間は少数派だと思う。たとえば、学生が親に「勉強しなさい」と言われると勉強しようと思っていた気持ちがいともたやすく消え失せるような。

 

 ここまで書いてくると結局、言い方だったのかもしれない。「拍手をもらえると嬉しいので、よければお願いしますね」くらいなら、いやもう全然喜んで拍手した。自発的に拍手しているという拍手している者の意志を尊重しているからだ。しかし、「強制です」はそんな拍手する側の気持ちなどは微塵も考えていない。自分の都合を押し付けているだけのように感じる。その言葉と実際の芸の腕が乖離していれば、なおさら頭にくる。「そんな実力でよくそのような偉そうなことが言えるな。自惚れている」。

 

 この話はもう6,7年も前の出来事だったのだが、結局、自分の気持ちを書き出してみるとそういうことだった。あいつの言い方が悪い。

 

 しかし、私はその大道芸人に対して拍手をしてやったし、ヨーヨーまで買ってやり(大道芸人は二人組で男性のほかに女性がいたのだが、その女性がかわいかったの買った)、千円ほど投げ銭を缶に入れてあげたのだから、非常に良心的な観客ではないだろうか。優しすぎるだろ、私。ブログ名のとおりの人間である。ただ一方で、その行為の裏側で私はこんなにもわだかまりを抱えていたのだ。

 

 自分の性格が良くないだけかもしれないが、今回そのもやもやを書き出すことができてよかった。あのとき買ったヨーヨーはまだ埃をかぶって部屋に置いてある。そもそも私、ヨーヨーとかできないし。今頃、あの大道芸人(男性の方)が悔い改めていますように。そうでなければ不幸のどん底にいますように。

 

個人で行う生活史調査の真似事

 生活史調査とは質的調査であり、社会学的調査の一種である。他者が生きてきた軌跡を追うことであり、個人の視点から社会が何かを浮かび上がらせる分野だ。それはもっぱら取材によって行われる。他者と直接語りを聞くことによってその人の体験を聴取するのである。

 

 というものを知って、というか最近流行っていて、調査という点で、私の仕事にも関係があるし、個人的にいろんな人の話を聞くのは楽しいし、大きな大義名分与えられたような気持だ。

 

 たとえば、街にある一度も入ったことないスナックに潜入する。そこで常連の話やママの経歴を聞く。いろんな考え方や思想を感じ取ることができるだろう。必ずしも好ましい物ばかりではないだろうし、偏見や嘘、虚栄心、敵愾心、など様々な悪い物もちらついて見えることだろう。

 

 そこを割引いて聞くわけだが、残った中の体験談、経験談、人生談の話の一連の塊に、その人とというものが現れている。

 いろんな人の話を聞くことは面白い。それを集めたらそれなりの形になるのではないか。もちろん、社会学はそれをとうの昔に行っているので調べたらたくさん功績があるのだろう。後で調べるのだが、とりあえず、自分自身で知らない人たちと、つまり、他者に進んで話を聞きに行き、その人の人生体験を集めていきたいと思う。

 うまく聴取できた場合は、ここでまとめて書くかもしれない。

 

 気分は社会学者であり、探偵である。